〈〈〈〈〈福島お達者くらぶだより〉〉〉〉〉
35号 2005 4 9日 発行
 
お達者くらぶだより第35号をお届けします。
 この会報を編集している香山です。この号では、お達者くらぶのメンバーではないし、摂食障害でもないけれど、全く同じような苦しさをかかえてきた人とメイルのやりとりをした、そのメイルを掲載しています。もちろん、了承を得てです(そのことも載せました)。私が医学部ではない別の大学で非常勤講師として集中講義を担当した時に受講した学生です。名前の姓を隠した以外はやりとりしたそのままの文です。(集中講義というのは、大学の講義はふつう週1回(90分くらい)×15回(半年)を単位として行われることが多いのですが、それと同じ分量の講義を休み期間などに4−5日で一気にやるものです。)
 お達者くらぶだよりは3ヶ月ごとの月の1日に発行してきました。しかし、この会報を発行するのに一番人手がかかる折りたたんで封筒に入れる作業を、ミーティングの日に参加している本人の人達に手伝っていただくことになり、この号からはミーティングの日の発行にすることにしました。皆さん、本当にありがとうございます。
 
徹生君との交換メイル                   香山雪彦
 
はじめてのメイル(2004年5月:昨年の夏、集中講義を受けた者です。)
 突然のメールで失礼いたします。
 **徹生といいます。
 私は昨年の夏、香山先生の大脳生理学の集中講義を受講しました。
 授業後の飲み会にも参加して、別れ際にちょろっと自分がACであることを話しました。覚えていますでしょうか?
 私は12の頃に、自分が機能を果たしていない家庭に育っているのだと気づいて、以来、自分で自分の親になって、トラウマをどうにか解消しようと、かなりの労力をかけてきました。
 ここ何年か、一人で自転車をこいでいたりすると、不意に不安になることがあって「たすけてー」「うわー」「死にてー」とか声が自然と出ることがあったんですね。(その前は、いきなり泣き出したりしてました)
 この声はずっと、記憶の中の小さな頃の自分を思い出して、出ているのだと思っていたんですけど、この二月のあるとき、ふと、「ああ、これは、昔の記憶じゃなくて、今の自分の中にいる子供が助けを求めていて、この子達が、これまでずっと、何かに依存しようとしていたんだ!」と判ったんですね。そんで「じゃあ、誰かや何かに依存するんじゃなくて、今の俺が助けてやれば良いんだ!」と気付いたんです。それで、急いで家に向かいながら、ずっとインナーチャイルドに、「俺が助けに行くからな」と言い聞かせていました。
 そして、アパートに着くと、パソコンを起ち上げて、インナーチャイルドに向けて、一本の詩を書きました。もうそりゃガンガン泣きながら。
 苦節十年、また一つ大きな転機を迎えました。何の気無しに、香山先生の名前を検索したら、先生のメールアドレスを見つけました。
 100%私に向けて書いた詩なので、香山先生の役に立つかどうか判りませんが、せっかく書いたので、何かの足しになればと思って、送ることにしました。 Word形式の添付ファイルです。それでは。
  『四歳八ヶ月の俺へ』
 
 四歳八ヶ月の俺よ、
 もう死にたい と願うようになった俺よ
 
  でも、僕が死んじゃったら、他の子供が僕の不幸を背負うことになるんだ
 それじゃあまりにも可哀相だ。こんな苦しみ味わうのは、僕一人で十分だ 
 僕が、この苦しみを背負って、生き続けよう
 
 そう考えて生きる苦しみを耐えた俺よ
 
  僕はまだ小さいから、この苦しみを解決できないのは仕方ない
 耐えるんだ、きっと今が人生で一番辛いときだ。耐えるんだ 
 
 泣きながら、布団の中でそう考えていた 五歳三ヶ月の俺よ
 
 ぬいぐるみを抱きしめて、
「僕のことを解ってくれるのは、お前達だけだ」と、
    泣き声を堪えながら、くらい部屋で布団にもぐり、
          丸まって、何年も何年もすすり泣いていた俺よ
 よく頑張った。お前達は、耐え抜いたんだ。
 お前達が、泣きながら堪えてくれたから、今の俺がいる。お前達の御陰だ。
 
 もう泣かなくていい。
 
 お前達は、俺が守ってやる。
 俺も二十二になった。
 お前達を守ってやる。
 ずっとずっと耐え続けた、お前達を俺がちゃんと救ってやる。
 だから、もう苦しまなくていい。
 四歳八ヶ月らしく振る舞ってくれ。
 五歳三ヶ月らしく振る舞ってくれ。
 お前達は、今の今まで、俺の心の奥底で、堪え続けてきた。
ずっと踏ん張ってきた。
 もう、そんなに苦しまなくていいんだよ。ありがとう。お疲れさま。
お前達の御陰で俺がいる。
ちゃんと、ちゃんと守ってやる。
だから、あとのことは、俺に任せて、自由になってくれ。
苦しみの頸木から、悲しみから、不幸から、自由になろうよ
俺が抱きしめてやる、
イイコイイコしてやる
困ったら助けてやる。
苛めるやつをやっつけてやる。
だから、もう泣くな。
もう、独りで我慢しなくて良いんだよ
   そんなに脅えなくて良いんだよ。
君達が待ち続けた救いの手が
今 ようやく差し伸ばされたんだ。
 
 誰も、誰も、僕を助けてくれなかった
 だから、耐えるしかなかったんだ
 僕に勝ち目が無くとも
 戦うしかなかったんだ
 
そうだ、良く戦ってくれた。
まだ、小さかったのに。
何も解らず、ほとんど無力だったのに。 
戦い抜いたんだ。
生き抜いて、勝ち残ったんだ。
ほら、ようやく、援軍が来た。
大きくなった 君が来た。
 もう、無力なんかじゃない。
 知恵だってある。
 かつての敵も、いなくなった。
 
 そうなんだ
 
実はもう、君が戦い続けた敵はいないんだ。
今度は、他の相手と戦わなくてはならない。
だけど、君たちは、戦わなくて良いんだ。
俺が、相手をするからね。
君たちのことは、ちゃんと俺が守るから、
ばっちりがっちり守ってやるから、
自由になってくれ。
永い永い戦いは、終わったんだ。
君たちは耐え抜いた。
勝ったんだよ。
 
もう布団の中で泣き続けることはない。
よくやった よくやった
布団から出てきて、自由に遊んでくれ。
俺のなかで、はしゃいでくれ。
喜んで、楽しんで、笑いころげて、元気溌剌な姿を見せてくれ。
君たちのためのオモチャは、いっぱいあるから、
どれでも好きに使ってくれよ。
 
(2004年5月:福島医大の香山です)
**徹生様
 メイルと添付ファイルの詩を読ませていただきました。貴君のことはよく覚えています。(思い出しました、というのが正しいのかもしれませんが。)今年は大学の最後の年かと思いますが(あるいは、もっとゆっくりと大学生活をするかもしれないけれど)、このような詩を書けるようになって、まちがいなく自分が自分の力で生きていることを感じることもできるようになってきたのだろうと思います。今でも急に不安に駆られて叫び出すことがあるのですか?それはずいぶんと減って、ほとんど無くなってきているのですか?
 いずれにしても、よく生き延びてきました。とにかく生き延びることが大事なのです。人間、死ぬときに「自分もよく生きた」と思って死ねればいいのだと、私は思っています。たとえまだまだ波瀾万丈、疾風怒濤の人生を送っているとしても、死ぬ前の1−2ヶ月でも落ち着いて生きることができれば、きっとそう思って死ねるでしょう。なにしろ、そう思える種になるエピソードには事欠かないでしょうから。これからも生き延びていてください。
 私もひたすら生き延びる感じで毎日の仕事をこなしています。そんな中にも喜びはあります。何よりも、言葉を交わしている人たちと心が通じたと感じることが喜びです。当然そう感じる前にはいっぱいに苦しいことが積み重なっているのではあるのですが、それらは心が通じた瞬間にすべて許されます。
 それでは。まあ、ゆっくりと生きてください。
香山雪彦 
 
2通目のメイル(2004年9月:昨年、集中講義を受けた**です)
 前回、私がインナーチャイルドと出会ったときに書いた詩を勝手に送らせて貰った**です。
 今回は、摂食障害の人たちに「こうやったらちょっと症状が緩和されるんじゃないのかな?」と私が考えている事を言いたくて、メールさせていただきました。
 具体的には、物を食べそうになったときや食べているとき、ずっと自分に「これでいいんだ、これでいいんだ」「食べて良いんだ、いいんだよ」「美味しいなー、これ美味しい」「アフリカの子供は餓死しているのに、こんなに美味しいものがたくさんたべられて、幸せだー」と、まあなんでも良いんですが、自己肯定的な言葉を言い続ける。
 絶対に「ダメだ」「止めなきゃ」等の否定的な言葉を言わない。
 それだけです。
 
 摂食障害というのは、大概は自分を否定する事が原動力になっているので、自分の中で「止めた方が良い」と思う事をすることに意味があります。
 なので、それを「いいんだ、いいんだ」と肯定しちゃうと、自傷行為でなくなってしまうので、だんだん緩和して行くと思うんです。
 これは、理屈だけじゃなくて、体験からも言えます。
 私自身以前はときどき過食気味になっていました。
ちょっとでもストレスを感じると、何かを食べずにはいられない状態になってました。
 でも、ある時このことを思いついて、試してみました。
 すると、しばらくして、以前のようにめちゃめちゃに過食することが無くなりました(ひどいときは、ご飯三合、ケーキ、蒲焼き、ポテトチップ……を一食で食うとかあったんですけど)。
 
 もちろん、私の過食が減少したときには、環境が変わった等、他の要因も関わっていたので、言葉だけでどれ程効果があったのかは分かりません。
 でも、ある程度の効力はあったと言い切れます。
如何に自分を肯定出来るようになるかっていうのが摂食障害の改善にすごく重要です。
 そして肯定するのは自分の頭の中の言葉です。
 他の誰かが言ってくれるならそれに越した事はないんですけど、私の場合「いいんだよ」なんて優しい事をいってくれる人がいなかったので、自分で言ってたわけです。
 本当は他人と自分、両方から言われれば一番いいんですけど。
 
 私は専門家ではないし、それほどひどい慢性的な過食というわけではありませんでしたが、お金もかからず手軽だし、効果が無くても副作用はありませんし、何にも損しないので他の人にも勧めたいんです。
 
 自分をコントロールするには、自分を観る必要があります。
 それには自分を受け入れる必要があります。
 自分を冷静に観るのに必要な、自己肯定的な考えを自分に染み込ませるのに、言葉というのはとても重要な要素ですから、私以外にも効果があると思います。
 
 もちろん、すぐに効く訳ではなくて、何百回も何千回も「いいんだよ」「美味しい」「幸せー」と、継続して言う必要があります。
 これは心理学の、行動療法と似ています。
 中身が地味な人は、外見を派手にすると、次第に中身も派手になっていく、そういうやつです。
 しかもこの、とりあえず外見を変える、というのは、中身から変えていくより、断然効果が出るのが早いそうです。
 
 だから、とりあえず騙されたと思って、千回「美味しい」「これで良いんだ」と自分に言い聞かせながら食事すれば、食事中の気分が少し変わると思います。
 千回でダメなら二千回、三千回、一万回、言えば変わります。絶対に。
 
 人間の脳みそは、何かに対して「ダメだ」と言えば、無意識に駄目な理由を探そうとします。「ステキだ」と言えば、ステキな理由を探そうとします。
 そういう仕組みも応用しているわけです。
 
 このひどく地味な方法は、私が読んだ限りでは摂食障害関連の本に載っていませんでした。
 でもこの方法は、その理屈からしても、誰でも続ければ絶対確実にある程度の効果が見込めると思うんです。
 例によって、こうした事を話す相手として、私は香山先生しか知らないので、また勝手にメールさせて貰った次第です。
 私の経験を、少しでも他の苦しんでいる人の役に立てて頂ければ幸いです。
**徹生
 
(2004年9月:取り急ぎで失礼ですが)
**徹生様
 メイルをありがとうございました。実は週の初めからずっと学会出張で昨夜遅く帰ってきて、明後日にはまたまるまる一週間の出張に出発、机の上には処理すべき書類と郵便物の山という状態で、ゆっくりと書いている心の余裕が持てずにいます。それで、短いメイルになりますがお許しください。
 私は摂食障害に苦しんでいる人達に「まあ、いいか」と言ってみよう、それが言えないから苦しんでいるのだとわかっているけれど、それでも言ってみよう、とよく言います。それと同じ考えを書かれているのだと思います。
 ただ、これは誰にでも当てはめられるとは言えなくて、私は誰にでもそう言うのではありません。少しでも誰かに受け止めてもらえた、あるいは別のことで少しでも自己評価を高くできることがあった、そんな状態の人にしか言えないのです。ずたずたに心が傷ついて自己評価が下がるばかりという状態の人には、これらの言葉を言ってみようと言うことはよけいに傷つける可能性があると感じて、私は言えません。その言うのがよいかまずいかの判断は決して容易ではなくて、その判断には長い時間をかけて話を聞くほかないのだけれど、それでも間違うことがあって、その時には素直に謝りますが、その謝罪を受け入れてくれる関係を作るにも時間がかかります。
 そんなところで今日は失礼します。(ところで、あなたはこれから具体的にはどう生きますか?)
香山雪彦
 
3通目のメイル(2004年10月:お返事、遅くなりました)
 お忙しい中、メールありがとうございました。
 返信してもらえるとは思っていなかったので、何を書こうかと考えていたら、ずいぶん日が経ってしまいました。
 
 「自己評価を高める出来事を経験し無いと出来ない」との指摘がありました。
 言われてみれば、確かに私も言葉に頼る前に、くだらないと思ったことでも、なんでも、自分の思いついた事をとにかく実行する、ということを意識していくつもやってきていました。(ラーメンを食べたくなったら、食いに行く、とか。本当に些細なことからです)
 あと、本を読みまくる、とか。
 自分は依存傾向がもの凄く強い、ということが分かっていたので、それを利用して去年は沢山本を読みました。
 読書して、知識を増やすと、少し自信がつきますからね。
 そうやって、ようやく今の段階にきたんですね。我が事ながら、よく分かっていませんでした。
 
 具体的にはどう生きるか? という事ですが、
 仕事を持って、稼いで喰っていく、というのが一番重要な問題ですが、そのことはもちろん考えています。でも、実はあんまり心配していないんです。仕事、となると、ついついムチャクチャ必死になってやることがわかっているので、とりあえず食いはぐれることは無いだろう、と。
 
 あまり具体的でない問題としては、数ヶ月前から「気分のふさぎ込んでいない自分」という状態に自分を慣らす練習をしています。自分の好きな物事を楽しんでいいんだ、ということを自分に言い聞かせてます。とにかく慣れですね。慣れ。
 かなり自分を甘やかしている気がするんですが、今はそういうことが必要な気がするので、そうやっています。
 甘やかして楽しいことを見つけて、徹底してやって、仕事と結びいたらいいなと思っています。
 
 ごく最近になってようやく「楽しい人生」というものが、自分のこととして幾らかイメージ出来るようになりました。やっぱり、なるべく楽しい人生にしたいです。
 十年前、12のときに、たまたま読んだ心理学の本に機能不全家族が載っていて、自分と周囲の子供の違いを知りました。そこで初めて、死にたい、と望まない人生がこの世あって、大抵の子供はそうなんだ、と理解しました。
 そのときから自分改造が始まったんですが、そのことを考えると、楽しい人生、というものをイメージできるようになった今の自分は、ずいぶんマシになったんだなあ、と思います。
 私の気まぐれなメールに、度々丁寧なお返事いただき、ありがとうございます。
 お忙しいようですが、どうぞご自愛下さい。それでは。     **徹生
 
(2005年10月:お願いも・・)
**徹生様
 またメイルをありがとうございました。僕は先週までの2ヶ月半、猛烈に忙しくて、それも加速度的に忙しさが増してきていた、それがぱたっと終わって、今はその間にたまった書類や手紙を処理している状況です。まあ、何とか生き延びました。
 そんなところに今回のメイルをもらって僕は感じたのですが、今回のメイルがあってはじめて、今年の春からいただいていた詩を含めたメイルの内容が全部しかるべきところに落ち着いたと言えそうです。「数ヶ月前から『気分のふさぎ込んでいない自分』という状態に自分を慣らす練習をしています。自分の好きな物事を楽しんでいいんだ、ということを自分に言い聞かせてます。とにかく慣れですね。慣れ。」、また、「十年前、12のときに、たまたま読んだ心理学の本に機能不全家族が載っていて、自分と周囲の子供の違いを知りました。そこで初めて、死にたい、と望まない人生がこの世あって、大抵の子供はそうなんだ、と理解しました。そのときから自分改造が始まったんですが、そのことを考えると、楽しい人生、というものをイメージできるようになった今の自分は、ずいぶんマシになったんだなあ、と思います。」というような状況がなければ、今まで書いてきたことは単なる空回りに見えてしまう可能性もあると思うのです。ともかくも、今回のメイルが一番心にしっとりと伝わってきました。
 そこでお願いなのですが、この間にいただいたメイルと私が書いたメイルを、私が編集している福島お達者くらぶだよりに載せさせていただけないでしょうか。その人達にこのような考え方があるし、このように生き延びていけるのだよということを伝えたいのです。いかがでしょうか。
 という勝手なことで申し訳ありません。仕事となるとつい突っ走ってしまうこと、大いにわかります。それをコントロールすることも経験を積みながら覚えていってください。(60歳近くなってようやくそんなことを言えるようになった私ですが。)それじゃまた。
香山雪彦
 
4通目のメイル(2004年10月:どうぞどうぞ)
 香山雪彦様
 どうぞ私の送ったメールが、何かしら役に立てていただけるのでしたら、大いに使っていただきたいと思います。そのために送ったようなものですから。
 手短ですが、とりあえずお返事までに。それでは。       **徹生
 
(2005年10月:ありがとう)
**徹生様
 了承のメイルをありがとうございます。それではいつか使わせていただきます。
私は今日もバスで会津に行って、看護学校の講義を50分×7回やってさっき帰ってきました。働き過ぎだと思うのですが、頼まれればつい引き受けます。講義は嫌いでないので。
 それじゃまた。
香山雪彦
谷川俊太郎さんの「やわらかいいのち」について:どう思いますか?
 ずいぶん以前のお達者くらぶだよりに谷川俊太郎さんの「やわらかいいのち(思春期心身症と呼ばれる少年少女たちに)」という詩を載せたことがありました。5節に分かれているこの詩の3節目を書いてみます(3節はさらに2つに分かれています)。
 
怒りながら哀しんでいる    拒みながら待っている
戸惑いながら決意している    謝りながら責めている
突き放しながらしがみついている    途方に暮れながら主張している
ひとつの顔    ひとつの背中
世界中でたったひとつのあなたの顔   かたくなに自らを守るあなたの背中
その顔はかくしている    その背中は呟いている
誰にも読みきれない長い物語を    自分にもつなぎきれないきれぎれな物語を
 
 すごいと思いませんか。たぶん、直接には過食症の人たちとそんなに深く関わったことなんかないだろうに、こんなことがわかるのはすごい人だと、僕は身震いするくらいです。
ところでこの後半部分の2行目「謝りながら責めている」というところなのですが、もちろんそんな時があるのはよく知っているのですが、私はそれよりも「責めながら謝っている」という方がもっと多いのではないかと感じています。それは、私は少し深くかかわり出すと責められることが多くて(思慮の足りなかったことをひたすら謝ります)、そんな時もその人は心の中ではごめんなさいと謝りながら、それでも責めざるを得ないように見える、そのことが強く心に残っているからかもしれませんが。
皆様はこのどちらがより適切だと思われますか?(あるいは、自分はどちらが多いですか?)お母様、お父様は、過食の娘さんに責められている時に、同時に娘さんは一生懸命謝っているのが見えますか?
 
福島お達者くらぶの連絡先
 福島お達者くらぶは会長や代表者をおいていません。明確な事務局もおいておらず、スタッフがそれぞれの状況に応じて分担してミーティングやその他の活動の運営を行っています。(その運営の形は自助グループ的だとも言えそうです。)しかし、連絡先だけはきちんと明示しておかなければ困ります。現在、連絡先は次のとおり香山の所にしています。
960-1295福島市光が丘1番地 福島県立医科大学医学部 生理学第二講座 香山雪彦
電話(直通):024-547-1134  FAX:024-548-2571 メイル:y-kayama@fmu.ac.jp
 
連絡はなるべく手紙かメイルでいただけたらと思いますが、お達者くらぶやミーティングについての問い合わせなどは遠慮なく電話していただいてけっこうです。初めてで様子がわからない方もどうぞ電話してください。香山は会議や講義で不在になっていることもあるので、一回でつながらなくてもめげずに何度もかけてください。夕方5時以後も、9時くらいまでいると思います。(もちろん不在のこともありますが。)
ただし、個々の問題についての相談には応じられません。それは、全く同じように見える人でも、例えば抱き留めてあげるのか、逆に突き放してあげる方がよいのかなど、人によっても、その人の時期によっても、全く違った対応が必要になることが多く、それは長い時間をかけて何度も何度もお話を聞かないと判断できないことで、電話では責任ある対応ができないからです。お達者くらぶは相談の場所ではないことは、ミーティングについても同じです。ご理解下さい。