〈〈〈〈〈福島お達者くらぶだより〉〉〉〉〉
第33号 2004年 10月 1日 発行
 
お達者くらぶだより第33号をお届けします。
 この号には掲載しようと予定していたことがいくつかあったのですが、すべて取りやめて、私の所に寄せられた手紙を載せます。便箋にぎっしりと19枚、たぶん、自分でもこんなに長い手紙になるとは予想していなかったけれど、書き出したら止まらなくなったのだと思います。
 私は休日に自宅で丸々一日かけてこれをワープロで打ちました(涙を抑えながら)。ふだんよりだいぶん小さい活字にしなければなりませんでしたが、これでも入りきらず、PSは泣く×2割愛しました。この一気に書いた力、生きる力を感じてほしいので、漢字やかな使いは原文のままにしました。(これだけ勢いで書きながら、書き方のクセはあるけれど、間違いはほとんどありません。)ただ、時には何ページも切れ目なくつながっている文章では読みにくいから、段落に切ることだけは私の方でさせていただきました。(さらに、地名など、これが誰かわかるかもしれない所は私が書き換えさえてもらいました。)
 この手紙を、私はみんなにも読ませてあげたい、そして、たぶん直接にはなかなか素直な言葉で「ありがとう」と言いにくいお母さんにも読んでもらいたいと思って、お達者くらぶだよりに載せさせてもらえませんかと尋ねました。それに対して、出してもいいと言ってもらって、美瑛さん、本当にありがとうございました。
 
私の病歴なんかを書いてみたいと思います          美瑛
 1982年の秋が深まりつつあった日のAM4:00 私が誕生しました。母は病院勤務、父も勤め人の共働きのため、祖父母に育てられたような感じです。昔の男の人そのものの祖父(ガンコでいばっていて... 祖母にあれしろ、これしろ、命令ばかりしている人)で小さいときから大嫌いでした。なぜ女ばかり働かなきゃいけないの?男は女より偉いの?そんな疑問を持ちながら生活してきました。
 祖母は過保護で今も私を子どもの時と同じように“みっちゃん、みっちゃん”と呼びます。リンゴを食べるにしても“ばあちゃんが皮むいてやるよ”って... 出掛けるときにはガレージにまでわざ×2出てきて、“どこに行くの?お金はあるの?何時に帰るの?... 早く帰ってきなさいよ。”と言ってきます。はっきり言って、ウザイです。私、21歳だよ!! もう子ども扱いしないでよって思います。私がリスカしたりすると、泣きながら、“せっかく良くなってきたと思ってたのに... 自分を責めないで... ばあちゃんを悲しませないで...”と言ってきます。そして、決まってそのあとにお金をくれるんです。お金なんていらない...
 今だにそうなんですが、祖父母はいつものように夫婦ケンカするんです。小さい頃からずーっと祖父母がケンカする声を聞いてきました。中学生になって自分の部屋をもらいました。祖父母の部屋のすぐ隣りの部屋でした。夜、自室で勉強していると、「何でお前はそうなんだー」と祖父のどなり声が聞こえてきます。祖母も負けずに大声で言い返します。(また、始まった... なんでいつも×2ケンカばかりするの? もう聞きたくない! もう...うんざりだ... うるさくて勉強できないよ(涙) もう...やめてよー)毎晩×2言い争いしている祖父母の部屋の隣りで私は泣いてました。祖父がどなるたび自分が怒られているようで... 怯えていました。辛くても辛くても、何も言えずに、ずっと我慢していました。
 一方、父母は、お互い仕事が忙しいので、父と母が仲良く話しているところなんて見た事ありませんでした。たまに話していると思っても、父が飲み会や接待などで毎晩のように酔っぱらって帰ってきている事に対して母が一方的に怒っているくらいです。父はいつもPM10:00くらいに帰ってきていたので、私と顔を合わせる事もなく、週末も仕事、仕事...。私は祖父とは180°違う、母に怒られてばかりいる父も大嫌いでした。父親なんて必要ない、父がいる意味なんてないと思っていました。私の勉強や学校の事には全く口を出さなかったし、父に怒られた覚えがありません。友人はお父さんが「宿題やれよ」ってうるさいんだよ〜 なんて事を言ってましたが、私にはうらやましく思えました。思春期になると娘は父親を嫌うみたいな事が言われますが、私は小さい頃からずーっと嫌いでした。特に中学生くらいになると、父とはほとんど口をきかなかったし、すれ違うだけで寒気がするくらい大嫌いでした。優しすぎる父の態度がよそよそしく思え、他人だと思ってました。
 母は仕事で疲れているのか、いつも機嫌が悪くイラ×2していました。ちょっとした事で言い争いになり、泣いてました←(私が)。仕事から帰って、家事をして、朝になって洗濯、料理...etc また仕事、帰ってきて家事...の繰り返しで疲れていたんだと思いますが... 「なんでご飯作ってないのよ...」「また置きっぱなしで...」「私ばかり家の仕事しなきゃならないのよ...」...etc。私によく愚痴をこぼしていました。祖母は農作業しているんですが、暇な時でも家事をしませんでした。全部、母がやってました。小学生の高学年くらいからは、休日や夏休みなどは私が全てではありませんが家事(洗濯、料理、そうじetc)をやってました。母を怒らせないように、母の機嫌をとるために良い子を演じました。
 祖父母にはかなりの期待を掛けられていました。進学校に入って、良い大学に行って、良い会社に就職する... なんでも言う事を聞く、頭の良い、良い子を演じました。
 小学校では1人も友人がいませんでした。休み時間もずっと机で紙に絵を描いていました。本当に無口で担任の先生にも心配されていました。成績だけは良くて、テストで100点を取ったりすると、クラスメイトに嫌みを言われたりしました。学校は大嫌い、行きたくない... でも休んだりしたら家族が心配するから... カゼをひいても、具合が悪くても、心配かけられないと思い無理してでも通っていました。
 中学も高校も同じで本当は学校生活が辛くて×2行きたくなかった... でも行かねば... とほとんど休む事なく通いました。中学では友達もできて、それなりに楽しかったのですが勉強の方がうまくいかず... 今までは学年トップクラスの成績で自信があったのですが、中1の初めての試験の順位が180人中13位、自信大ありだったのに... それからは勉強に対する意欲がなくなり、30位以内に入れればいーやって感じでした。進学校に行く事はあきらめました。友達ができるとマジメに勉強している事が悪い事をしているようで嫌でした。5校の小学校が集まった中学校で、成績に関して“お山の大将”だったことを気付かされました...。
 将来は人の役に立つ仕事に就きたいと思っていて、母の影響で医療関係の仕事をしたいと決めていました。母の病院に遊びに行っていたりして、白衣にとても憧れ、介護福祉士になる事を目指したいと思いました。結局、進学校の受験は落とされるのが恐くて、市内で2番目にレベルが高いと言われていた高校の情報会計科に入学しました。
 入学して友達作りの苦手な私には、友達などできるはずもなく... でも1人でいる勇気がなくて、同じ中学出身のSさんと一緒にいました。54人のクラスメイトの中で唯一同じ中学出身だったのがSさん1人だったのです。Sさんはアニメおたくでかなり地味な子で、見た目も性格もクラスでかなり浮いていました。そのSさんと一緒にいる私も浮いていたと思います。他の女子はスカートを短くしたり、茶髪、ピアス... 服装などにきびしい学校だったんですが、皆それなりのオシャレをしていました。彼氏がね... なんて話やメールがさ〜なんて話が飛びかう中、私は彼氏どころか携帯電話も持っていませんでした。服装も学則通りのマジメな子って感じでした。
 Sさんといる事でクラスから疎外されているようで、朝、教室に入るのが辛くて辛くて動悸や息切れなどの症状が出ていました。クラスメイトとは軽い会話はできるのですが、話しが続きません。(かなり緊張するんです) Sさんはクラス全員(女子からも男子からも)に嫌われていました。Sさんと一緒にいることが嫌で嫌でたまりませんでした。クラスメイトに「どうしてSさんと一緒にいるの?」と聞かれる事もありました。休み時間も何をしたらいーのか分からず... 固まったように机から離れられなくて、席から立ち上がる事もできませんでした。私の居場所は自分の机だけでした。そこから離れることが恐ろしくて動けませんでした。部活もしていなかったし、学校帰りに遊ぶような友人もいなくて、PM 3:30に学校が終わるとまっすぐ帰宅していました。
 高校までは家から自転車で約40分。どうしても甘える事ができずに吹雪の日も、雨の日も親に車で送り迎えしてもらう事なく、自転車で通い続けました。学校生活は本当に辛くて... 何も楽しみもなく... 明日も学校... 体育がある... 嫌だ嫌だ... 行きたくない... 辛い... それでも誰にも辛い気持ちを言わず、弱音など吐かず、ひたすら辛い日々をぬりつぶしていくという感じでした。
 もともとぽっちゃりしていた私なんですが、高校入学と同時くらいに太り始めて... 2年生の秋くらいには鏡で自分の顔を恐くて見れないくらいに太ってしまいました。帰宅してから夕食までの間、何もする事がなく、甘い菓子パンやチョコ菓子、アイスクリームなどばかり食べていたからだと思います。168cmで62kg ←ほぼ標準体型だったのですが、太ってしまったという事が受け入れられず、全く自分に自信が持てなくなりました。ぽっちゃり顔を見られたくなくて、人と面と向かって話しをする事もできなくなってしまいました。小さい頃からずっとぽっちゃり体型で、祖父に“足が太い”だの“体格良くなったな”...etc。言われてきて気にしていたんですが、中学では運動部(バトミントン)で動いて甘い物を沢山食べても急激に太る事はありませんでした。しかし、高校では体育で運動するのみで、日に日に太っていきました。
 太っている自分が嫌で... 高校2年の冬にダイエットを始めたんです。間食抜き、甘い物、油物は禁止。ごはんの量も減らし、夕食後に1時間の運動...etc。休みの日には1日中動いていないと太ってしまう恐怖感でなわとびやスクワット...etc ずーっと動いていました。
 数時間ごとに体重計にのったり、母がお菓子やカロリーの高い食べ物を買ってきたりすると、イラ×2して母に当たってました。私にお菓子なんて見せないでよ! 2つ下の妹がいるんですが、妹は背が高くヤセていてスラリとした体型、頭も良く、顔もカワイイ... 私の欲しいものを全て持っている彼女が憎くて... ケーキやクッキーを作っては妹に食べさせました。お菓子作りが好きだったのもあるんですが、妹を太らせたくて作っては無理やりでも食べさせました。
 ダイエットを始めて、少しずつ減っていく体重、ヤセていくことに快感を覚えました。我慢してガンバッた分だけ数字が減っていく。もっとヤセたいと3年生の秋には10kgの減量に成功しました。ダイエット雑誌を読みあさって、だいたいのカロリーは分かるようになりました。パン1枚は120kcalだとか。
 ダイエットしてヤセていくと同時に勉強に対する意欲が高まり、80人中5位以内に入るようになり、3年生になってからは、2位か3位が私の順位で、科でトップになった事もありました。ひたすら勉強して点数や順位でがんばった成果が目に見えて分かる感覚はダイエットしてヤセていく快感と同じでした。マジメに勉強している私はクラスでは浮いていました。マジメで頭の良い子 → 私のイメージになってました。
 学期末には科目賞という賞を何度も頂いたり、卒業時には努力賞なるものを頂きました。私にはダイエットしてヤセる事と良い成績を取ることしかなかったから... ヤセていくとクラスの女子は“ヤセたね〜 どうやってヤセたの? うらやましいな〜”なんて言ってくるようになりました。ある男子からは“Sさんといるからストレスでヤセたって皆、言ってるよ。”なんて事も言われました。ヤセていくと少しずつ自信が持てるようになり、クラスメイトとも普通に会話できるようになりました。
 3年生の冬、進路決定の時期に私はダイエットして、カロリー計算や食物に関心を持ち、介護の道をあきらめ、栄養士を目指しました。大学選びもやはり落ちるのが恐くて、レベルを考えて、短大の食物栄養科に入学しました。
 すぐに友人もでき、楽しい大学生活でした。しかし、1年の6月にスーパーでのバイトを始めてからは、バイト バイトの日々に変わりました。バイトが入っていないと不安で毎日×2働きました。友人も大丈夫?って心配するくらいに働きました。大学が終わってからの時間が何をしたらいーのか分からなかったし、部屋に帰っても淋しい。でも友人と遊ぶ方がもっと嫌でした。友人は好きでしたが、気をつかっていたのか疲れてしまうんです。友人と淋しさから逃げるためにひたすらバイトしました。
 大学に入ってからもダイエットを続けていましたから、食べ物から逃げたいというのもありました。よる10:00に帰宅して牛乳や野菜などで食事を済ませ、勉強して寝る日々でした。朝食は納豆と卵、ヨーグルトなど、栄養を摂るためだけに食べている感じでした。食べる楽しみなどありませんでした。少しずつですが、バイトを始めてからヤセていきました。勉強はがんばりました。栄養士として病院で働くと決めていましたから。クラスの子は合コンだの飲み会だの 男の話ばかりしているような子たちでした。クラスの子達とは、普通に話したり、たまに食事に誘われて遊んだりもしました。
 そんな中、1年生の11月に“運命の男”と出会う事になったのです。クラスの子の紹介で近くの市に住んでいる社会人(19才)の子でした。メールやTELをしたりしている内に彼から告白されました。断る事が申し訳なくて、特別、好きでもなかったのですがOKしました。クラスは女子が52人、男子3人の女子校のような感じで、“彼氏がいる子は勝ち組、いない子は負け組”、彼氏のいない子はほんの数人ほど... そういう感じのクラスで彼氏のいない私は変に思われているようで、OKしてしまいました。
 彼は遊び人でした。女の扱いは手慣れたものだという感じ。でも、私と付き合っている時には、合コンや飲み会など、男友達、女友達と遊ぶ事はありませんでした。「背が高くて、ヤセている子としか付き合わない。」「お前、絶対太るなよ!! 太ったら別れるからな!!」← 彼の口グセでした。私は男の人が苦手だったし、話しすらできなかったので、何でもかんでも彼の言いなりでした。私は毎日バイトでPM10:00に帰宅、彼もPM9:00に仕事を終えて、1時間かけて車で私の部屋に来ていましたから、どこかに遊びに行く事もせず、ただ部屋でTVを見るくらいです。私は1人の時間が欲しかったのに、毎日のように通ってくる彼がうざったくて仕方ありませんでした。彼はsexをするためだけに来ているんだと思ってました。毎日×2sex... 私は彼が初めての相手でしたから、sexに関しては全くの無知。遊び慣れている彼の言う事をきくだけでした。避妊など彼には考えられない事のようでした。私は何も言えませんでした...
 1年生の1月、彼が隣の町にアパートを借り、一緒に住む事になりました。私は...大学→バイト→アパート→大学の日々に疲れ切っていました。バイトを終えて、近くの駅まで約20分を自転車で暴走しました!! 電車の時刻がギリギリだったんです。途中の駅で20分ほど止まるので、電車は約40分もかかりました。大学、バイト... ヘト×2に疲れている私は、好きでもない彼の部屋に通い続けました。アパートに帰らなきゃ... 帰らなきゃ...。彼は終電に間に合わなかったら、タクシーで来いと言いました。なぜ... そんな事までしてアパートに帰らなければならないの? ほんとに辛くて×2... 途中の駅で止まっている間、ずーっと(今、降りれば自分の部屋に帰れる。でも彼に怒られる... でも... )迷っていました。
 結局は彼のアパートに帰るんです。疲れてヘト×2の私はすぐに寝たいのに...毎日×2sexです。嫌だという私を無理矢理押したおす彼は... 野蛮で怖ろしい生き物に見えました。それでも私は言いなりでした。
 夜と朝は食事を取る暇もなく、唯一の昼食もおにぎり1つのみ。「太ったら別れるからな」彼の言葉に縛られ... 食物を食べることが恐くなってしまいました。2年生の5月には体重が36kgになっていました... 春休みもバイト×2... 実家に帰りたくても、彼が許してくれませんでした。過食はなかったのですが、食べ吐きは3月くらいから始まっていました。最初は 食べなきゃ死んでしまうと思い、食べたのですが、食べ出すと止まらない!! ヨーグルト1個と決めていたのに、あっという間に3個... パニックになると 訳も分からず食べ物を口につめこみました。太ってしまう... どうしよう...
 私は中学生の時に読んだ新聞の記事を思い出しました。摂食障害・過食症の女の子の事例でした。菓子パンを10個、お菓子、アイスetc 指を突っ込んでトイレで吐く... 吐けば太らないかもしれない!! 私は水をいっぱい飲んで食べた物をトイレで吐きました。スーパーのバイトだったので、おそうざいやパン、お寿司...etcをもらって帰っていました。私は食べるつもりはなく、彼に食べさせるためです。アパート代などは全て彼が払っていましたが、食費だけ私が払う事になっていたんです。何も食べないと決めていても、食べ物を見ると食べたくて仕方ありません... 我慢も限界... アパートまでの電車の中で食べ吐きするようになりました。自転車を走らせながらでも食べました。アパートで吐く事はできないので、電車のトイレで吐きました。トイレの水道には「この水は飲めません」という貼り紙が。そんなの気にしている余裕などありません。いつも薬くさい水を大量に飲んで吐くんですが、うまく吐けずに... 駅に着いてしまいます。太る恐怖に耐えながら、走ってコンビニのトイレに!! でも、早く吐かないと、彼に「何で帰りが遅いんだ」と怒られてしまいます。焦れば焦るほど、全く吐けません。指を突っ込んで、涙とよだれでグチャ×2になった顔を鏡で見るたび... 私は何をやってるのだろう...と自己嫌悪におちいりました。それでも、彼の部屋に帰らねば... ヤセなければ... 太ってはいけない... 脅迫観念に縛られていました。
 バイトの仲間やパートのおばちゃんなんかは私がガリ×2ヤセた事を心配して、「大丈夫?」って声を掛けてくれました。しかし、大学の友人や先生、彼は何も言ってくれませんでした。彼は36kgのガリ×2の私を毎晩×2抱き続けました。生理は止まり、ひどいおりものとかゆみが出るようになりました。精子は中に出されていたので、妊娠しているなって思いました。私の人生、終わったと思いました...。それでも病院には行きませんでした。もういーよ... 私の人生なんて、自分なんて、どーなってもいいと思いました。
 生理が止まって半年、おりものもかゆみもヒドクなり、しかたなく産婦人科に行きました。妊娠はしていませんでしたが、クラミジア(性病)に患っていました。薬を渡され、毎日通ってくださいと医者に言われました。薬は食べ吐きで飲む暇もなく、バイト×2で病院に通うこともできませんでした。性病の事を彼に伝えsexは治るまでダメだと医者が言っていたといいましたが... それでも毎晩sexの日々でした。私も限界で嫌だ嫌だと抵抗しました。そんな私に彼は、「何、拒否してんだよー。オレの事好きなら言う事きけよ」とどなり、レイプ状態でおそってきました。私はsexしているときは泣いていました。男って最悪だ... 最低だ...。心も体もボロ×2でした。
 私は彼に1人になりたいと伝え、彼のアパートから自分の荷物を全て持ち、自分のアパートに帰りました。7月の事でした。自分のアパートに帰ってからは食べ吐き地獄でした。バイトから帰って、朝まで食べ吐き、そのまま大学へ。大学では授業に集中できず、寝ているか、ボーっとしているかでした。自分は過食症かもしれないと思うようになりました。うつ状態にもなり、無表情、友人と話しすることができなくなりました。何がなんだか分からず辛いと感じられませんでした。それでも大学は休めない、バイトも休めない... テストの日でも毎日×2バイトしました。アパートに帰りたくありませんでした... 食べ吐きしてしまうからです。
 その内、過食がヒドクなり、バイト中に店の商品を食べたり、帰りに店の商品を勝手に持ち帰るようになってしまいました。大学の学外実習で行った病院では、残飯を食べたり、材料の食べ物を食べたり...etc。過食地獄のどん底でした。万引きのクセがついたのもこの頃でした。過食するためにお金をつかう事がどうしても許せませんでした。
 最初に警察に連れていかれた時は、何て事をしてしまったんだ...罪悪感。母が迎えに来ました。私は母に迷惑をかけてしまった事が申し訳なくて... 本気で死にたいと思いました。私は大泣きしていましたが、涙1つ見せたことのない母が泣いたのです。私は自殺する決意をしました。母がアパートから帰ると、カッターで手首を切りました。でも、死ねませんでした。この事件からリストカット地獄に落ちました。万引き、過食、リスカ... 毎日×2繰り返しでした。
 万引きはダメだと思っていても、店に入ると無意識にバックに商品をつめこみました。レジに並ぶ事なんて考えられず、スーパーの中で商品を食べ、バックに次々とつめこみました。コンビニ、スーパー、バイト先、万引きのためだけに何時間もかけて回りました。あんなに大胆に盗んでも見つかる事がなかったのが不思議です。それでも何度か店員に注意されました。ほとんどがお客が私が万引きしている事を店員に教えた事で注意されました。バイト先ではごみ箱をあさり、残飯を食べたり、ゴミ置き場から、期限切れの商品や肉、魚の腐ったもの、ベーカリーの残ったパンを大きな袋につめて持ち帰り食べました。
 部屋では、とりつかれたように、食べ物をむさぼりました。食料がなくなると、調味料(マヨネーズ、砂糖、油、パン粉、小麦粉)をそのまま食べました。床にこぼれたパン粉をはいつくばって両手で拾い食いしました。トイレはグチャ×2... カビやうじ虫... すごい悪臭をはなってました。吐いた物を便器から拾って食べたりもしました。部屋全体もグチャ×2でした。リスカの血、ほこり、食べこぼし、脱いだ服...etc。そうじも洗濯もできませんでした。お風呂に入る事も歯をみがく事もできなくなりました。部屋では食べ吐きするか、リスカするか、寝るかだけでした。まるで悪魔がいる牢獄のような光景でした。
 大学は休む事なく通いました。栄養士になるために栄養学、調理学、生化学...を勉強しているのに、一歩大学を出れば、食べ物にとりつかれ、ガリ×2にヤセ細った自分...。栄養士どころの話じゃありません。自分の栄養管理すらできずに、もがいている私...。その苦しみも辛さも誰にも言えずに1人で戦い続けました。栄養指導論の教授は、私が摂食障害になっている事に気付いているようすで、顔を合わせるたびに、「ごはん、ちゃんと食べてるの?」と聞いてきました。友人はまた言ってるよと笑いました。私にはありがた迷惑、自分で分かってるんだから、いちいち声掛けるな!と思いました。
 ある日の指導論の授業中に摂食障害(拒食症になり、ガリ×2、過食が始まり、指をつっこんで吐く女の子。)がテレビに映されたときは、もうどうしていーか分からなくなり、パニックで息切れ、手足のふるえなどが起きました。教室から逃げ出したくても全く動けないのです。クラスの子達は「うわ〜!」「やだ〜!」なんて事を言っていました。教授は私に自分が病気である事を気付かせるためにビデオを流したと思いますが、私は“見せしめ”にあっているようで辛くて×2泣きそうでした。きっとクラスのみんなが私の事だと思ってる、みんな私の方を見ている... と思い込み、顔を上げる事もできず、ずっと下を向いていました。今、考えても本当に辛い時間でした。
 大学には心理学科があり、心理学の先生も沢山いました。しかし、苦しんでいる私に声を掛けてくれる先生などおらず、大学って本当に冷たい所だと、今になって思います。栄養士の資格は栄養指導論の単位を落としてしまい、もらえませんでした。すごい皮肉ですね... 今だに指導論の教授を憎んでます。県でも有名な栄養指導のプロが、なぜ私を見捨てたのか...。ビデオや声を掛けてくれた事は心配しての事だと分かっていましたが... 本当は「どうしたの?悩みがあるなら先生に相談してごらん。」なんて優しい言葉を待っていました。自分から教授に相談しに行く勇気がありませんでしたから...。
 万引きで警察に連れて行かれた時から、2週間に1度くらい母がアパートに来るようになりました。母は食料を買ってきて、料理し、私に食べさせました。ガリ×2の私を心配して「栄養を摂りなさい」「吐いてはダメだよ。もったいないから」と言いましたが、私には負担でした。(早く帰ってよ... 吐かなきゃいけないんだから) 母はアパートに来るとトイレのそうじをしていきました。泣きながらそうじしている母をボーっとながめている私。悲しいとも辛いとも感じられませんでした。母が帰ると、トイレで食べた物を吐き、買ってきた食料をむさぼりました。万引きもリスカも続いていました。万引きは食べ物だけでなく、服やアクセサリーなどを盗むようになりました。大きな町まで電車に乗り、万引きするためだけに行っていた時もありました。
 病院に行きなさいという母、でもどこの病院に行けばいーのか、内科?精神科?精神病院など、どこにあるのかもずっと分からず行けずにいました。母は医大に行きなさいといいましたが、医大の場所も行き方も分からなくて行けませんでした。見かねた母が週末にアパートに来て、病院に行くことに。しかし、医大は休みだったため、別の病院に行きました。体重測定では40kgでした。私の身長では40kg未満で強制入院です。ギリ×2で入院をまぬがれました。母は私を入院させたがっていました。しかし私は拒否し続けました。大学を休む事などできないと思ったからです。単位を落として留年などなったら、恥だと思いました。祖父母の期待もありましたから。
 2年生の夏休み、忘れもしません。駅ビルでの摂食障害の講演です。大学にポスターが貼られていて、行きたいと思いました。しかし、過食がヒドクて外出もできない状態で。駅まで行けるか... 電車の時刻、講演開始の時間。それまでに準備して出れるか... 母から電話があり、実家に帰る事にもなっていて、何を持っていけばいーか、大量のゴミはどーすれば... パニック状態になり、過食が始まってしまいました...。どうしよう×2と焦り、もうダメだとも思いましたが、根性で電車に乗り講演をきく事ができました。
 若い人などおらず、皆、医療関係の方々のようでした。でも、1人、若い女性が!! あれは、あとでお達者の仲間になった人だったと思います。先生の話にとても共感し、涙が出そうになりました。私と同じく苦しんでいる人がいるんだと分かると少し安心できました。そこでお達者くらぶを知りました。母に講演の資料を見せました。
 たぶんその講演がきっかけになったのだったと思います、大学のカウンセリングを知り、通うことになりました。その先生のすすめで、実家との間の町にアパートを借り、母と二人で住む事になりました。私は電車で、母は車で実家の方の職場に通いました。しかし、大学まで通う間に私は食べ吐きをしてしまうようになりました。母に辛いと伝えると、仕事を長期休日(介護休日)をとり、毎日、母が送り迎えしてくれました。行きは高速、帰りは国道を使って通いました。(そのアパートで暮らす前、11月に入院したことを忘れていました。)
 指導論の学外実習、皮肉にも精神病院でした。実習中は母と一緒のアパートではなく、自分のアパートから通いました。(朝の集合時間が早かったためです)実習の帰りに立ち寄ったスーパーで万引きを見つかり、母が呼び出されました。万引きして店を出ると、おばさんが声をかけてきたのです。警備員でした。事務所に入れられ、色々と聞かれました。あなた病気なにかあるの?という質問に「病気です。」と答えた私に、おばさんは「本当に?うそついてないでしょうね?」と言ってきました。その頃の私は体重も増え、見た目には全く正常な人間でした。私は悔しくておばさんをにらみつけました。店長さん(30代前半の男性)は私が今までに2度捕まっている事、今回、警察に連れて行かれたら、大学をやめなければならない事を知って、どうするか迷っているようでした。
 1度目は大学の近くのスーパーで、2度目はアパートの近くのスーパーでした。2度目のスーパーの店長は冷たい人でした。私の手首の傷を見て、ウワー!なんだそれ...と言い、病気だと話すと、「あんたみたいな人が来るところじゃないんだぞ。」と言い、警察が来ると...「この人の手首、ひどいから見てみろ。早く連れてってくれ」と。私は人として扱ってもらえないんだ、病気だとダメなんだ...と思いました。
 警察官には、「またあなたに会うとは思ってなかったよ...」と言われました。指紋など取る仕事をしている警察のおじさんがいたんですが、1度目に指紋を取る時に私の手首の小さな傷を見つけ「お前 切ったのか?」おじさんは自分の手首を見せてきました。大きなケロイドがありました。高校生の時に自殺未遂したが死ねなかったと言ってました。「お前は生きてろ、生きてろよ」と言われ、大泣きしました。リスカとは言えないくらいの浅いかすり傷。誰かに気付いてほしかった... 母も何も言ってくれなかったし、ほんとに小さな傷におじさんは気付いてくれました。本当に×2うれしかった...。2度目に警察に連れて来られた時は夜の11時ちかくだったんですが...「お前が来たって聞いて、とんで来たぞ」とおじさんが私服で現れました。私の手首は傷だらけ... おじさんは「また切ったのか。やめろ、やめろよ。」と言い、おもいっきり私のほほをビンタしました。他人にも親にも殴られたことのなかった私には、衝撃的だったし、おじさんの愛情のようなものを感じました。
 その時、母は夜勤で父が迎えに来ました。万引きした大量の商品を見て、「こんな物盗んだら、すぐ捕まるよ...」と1人言のように吐き出しました。私はその言葉がショックでした。この人は何も分かってない... 分かってくれない...。父よりも警察のおじさんの方が実の父親のような感じに思えました。
 話を戻して、実習帰りに見つかったスーパーの店長は、私の病気の話を聞いて、今回は見逃してやるという事になり、(保護者に迎えに来てもらうという条件で)電話をかけるために部屋を出ていきました。その店の場合は小さな子どもでも万引きは全て警察に通報する決まりだったんです。また、母に迷惑を掛けてしまった... ふっと横の棚を見るとカッターが置いてありました。私はおもいっきり、何度も×2手首を切りつけました。床には血だまりが... 部屋に戻ってきた店長は血に気付き、「お前、何やってんだ!!」とカッターを取りあげ、泣きながら私を抱きしめてくれたんです。ビックリしてしまいました... 大学時代に友人が自殺した事を話ししてくれました。「残された方は辛いんだぞ。お前 死んでも意味ないんだぞ。生きてれば良い事もあるんだから...」店長は泣きながら言いました。周りにいた従業員もビックリしていて、私を裏の倉庫へ連れて行ってくれました。寒いだろ?と自分の着ていたジャンパーを私にかけてくれ、温かい缶コーヒーを買ってきてくれました。1人の従業員が来て私の傷の手当てをしてくれました。私は... 悪い事をした犯罪者なのに、なぜ優しくしてくれるのだろう...?母が来るまで3時間くらいありましたが、店長さんはずっとそばにいてくれました。「寒いな。」と言うと自分の車を持って来て、私を助手席へ乗せてくれました。色んな話をしてくれました。30歳過ぎてるのに結婚してないんだよとか。
 店長さんの事は一生忘れません。世の中には私のような人間に優しくしてくれる人もいるんだと思いました。大学の近くにあったので、店長さんに会うために良く買い物に行きました。お達者の帰りに行ったりもしました。
 この万引きの事で入院しようという母、私も自分ではもうどうしようもできないと思い入院を決めました。実家の方に近い町の大きな病院に1ヶ月入院し、大学にまた通い始めました。入院生活は本当に辛くて、もう二度と入院だけはしたくないと思いました。体重もかなり増え、今まで着ていた服が全く着れなくなりました。
 大学に戻ると友人は変に私に気を使うようになりました。食事にも誘われなくなり、話しにもついて行けず、私は1人でいるようになりました。子供っぽい友人たちがウザったくて、嫌でした。太った自分を受け入れる事ができず、自分が大嫌いでした。自分を苦しめたくて、悪い事と思っていた事をやりました。タバコ、男、sex、タトゥー、顔ピアス、援助交際...etc。
 大学は何とか卒業できましたが、実家に戻ると祖父母が待っています... 過食している姿を見られたくなくて、夜中に隠れて食べ吐きしました。日に日に太っていく自分...。ピークは72kgでした。36kg → 72kg(約1年で2倍に) 過食もヒドクて、1日中食べ吐きの日々...。うつ状態にもなり、リスカ...。
 それでも、男性依存のようになっていた私には、いつも彼氏がいました。3ヶ月持てば良い感じで、次から次へと色々な男性と付き合いました。ほとんどがメールで知り合った人でした。妻子持ちの人や高校生と付き合ったり、発症のきっかけとなった大学の時に付き合った遊び人の彼とも復縁... 。3ヶ月付き合って、「あんたのせいで病気になったんだよー!」とどなりつけてフリました。
 今は彼氏はいないです。もう男の人にはうんざりです...。病気につけ込んでsexを強要してくる人も数人いました。何でそんなにsexしたいのだろう... 最近、10ヶ月近く付き合った彼と別れました。お互いがんばり過ぎて疲れてしまったんです。彼とはよくケンカしました。そのたびに私は自傷しました。一番ひどかった時は、本気で死にたくて、首を切りました。死ねない... どうして?とパニックになり、首を吊ったのですが死ねず... パニック×2で死に方、死に場を探し うろつく私...。ヤバイ このままでは本当に死んでしまう。←冷静なもう1人の私。救急車を呼んだら、さわぎになると思い、自力で運転して病院へ行きました。
 その時は担当の先生がいる曜日だったので、先生に切ってしまった事、自分ではコントロールできなくなり、病院へ来た事を話しました。先生は「偉いよ。すごいよ。がんばったね。」とほめてくれました。首の傷は外科の先生に見てもらいましたが ぬわなくても大丈夫だと言われ安心しました。以前、彼氏に「お前は病気に甘えてるんだ」と言われ、リストカットしたんですが、ビックリする程、深く切れてしまい、血が全然止まらず、13針 ぬったことがあったので、もう ぬうのは嫌だと思っていましたから。
 先生は「あなたはすごいよっ。絶対良くなるから。絶対良くなる!!」と言ってくれたのですが、すごく力が入っていて、医者はクールにいるイメージだったのですが、その時の先生は医者という自分を忘れたように、素でしゃべり続けてました。先生... 素になってます...!って思ったんですが、すごくうれしかったです。こんなに真剣に私の事を考えてくれる先生がいるんだと感激しました。今まで10人くらいの先生に診てもらったんですが、最高の先生だと思いました。先生は30歳くらいの若い男性でした。人として先生として大好きでした。その先生は今年の4月に別の町に転勤になってしまいました...。悲しいです。
 今はカウンセリングに行ってないんです。うつ状態もヒドクて、体重も減ってきて、カウンセリングは必要だと思います。先生に悩みを相談したいけれど、今の担当医は新米の女医さんで頼りにならないし...。転勤になった先生の所まで通ってカウンセリングを受けるべきか... 他の病院へ変わるべきか... どうしたらいーのか悩んでいます。医者との相性って大切ですよね。大好きだった先生にカウンセリングを受けたいのですが... 迷っています。
 とても長々と書いてしまいました。読むのもたいへんだと思います...。まだ×2書き足りないんですが、だいたいの病歴はこんな感じです。
 母には本当に迷惑をかけてしまって... それでも見捨てず、ずっと私の事を考えてくれていた事が本当にうれしいです。感謝しています。
 夏休みに1週間、北海道へ1人旅に行く予定です。かなり不安なんですが、前進するきっかけになれば良いと思ってます。
 
 
 
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