〈〈〈〈〈福島お達者くらぶだより〉〉〉〉〉

26号 2003 1 1日 発行

 

お達者くらぶだより第26号をお届けします。

 明けましておめでとうございます。

 福島お達者くらぶはこの前の11月で創設からちょうど10周年を迎え、その記念のパーティーをおこなったのですが、その様子を報告させていただきます。また、たまたまこのことを聞いて興味を持ち、ぜひとも参加してみたいと来てくれた**さん(ご本人の希望によりホームページ上では匿名とさせていただきます)が、そのときの感想を寄稿してくれました。 (この部分に書かれていた**さんの紹介も割愛させていただきます。)

 この号では他に、久しぶりにもらったReiさんの手紙、また、お達者くらぶのメンバーではないのだけれど、私がたまたま読むことになってものすごく心を打たれ、ぜひとも皆様に読んでもらいたいと思って、ここに掲載することの許しをいただいた##さんの文章がでています。(##さんも、メンバーでないので、ホームページ上では匿名とさせていただきます。)

 

10周年のパーティーをやりました

 福島お達者くらぶは1992年の11月に行ったセミナーでもって始まって、2002年の11月でちょうど10周年になりました。いままでも何回か書いてきたように、大都会を基盤とするNABAOAなど以外では10年間継続されてきたグループはほとんどなく、その間にいろいろと試行錯誤を繰り返してきたとはいえ、自分たちをちょっとほめてあげてもいいのではないか、まあ、パーティーくらいやって節目にしようとスタッフは考えたのです。昔のメンバーやスタッフと会える機会も作ってみたかったという思いもありました。

 このパーティーに集まってくれた人は38人でした。大学の中のレストランを会場にしたからかもしれませんが、一人3000円(家族で参加したときには2人目からは2000円)という参加費から考えると、料理などはかなりよかったと感じられました。支払いは集まった参加費でちょうどくらいでした。(2000円だけ不足だったのですが、これはミーティングの時にいただいている分が少し余っているところから補充しました。ご了承いただければと思います。)

 参加者のうち現・旧スタッフは10人で、創設の最大の功労者だった本田教一先生が多忙を極める中を磐城から来られ、創設当時のもう知る人も少なくなった話を挨拶の中でしていただけました。創設から数年間、ほとんど毎月来て本人ミーティングの基礎を確立することに貢献していただいたNABAのももえさんにも来ていただけ、旧交を温める時間を持てました。(ももえさんだけはスタッフの方からの招待とさせてもらいました。)

 最初にパーティーを企画したときには、初期の頃に来ていた人たちの久しぶりの同窓会のようなものにできないかというようにも考えていたのですが、創設の頃のメンバーの参加は、現在NABAの事務局長を務めていて東京からももえさんと一緒に駆けつけてくれた恵子さんを含めてほんの少数、家族の方もほんの少数で、その意味では少し寂しく、当初の思惑ははずれた結果でした。きっと、初期の頃に来ていた人たちは、それぞれの生活に忙しく、また、当時の仲間がいまどんな状態でいるかがみんな違っている可能性なんかを考えたら参加しにくかったのだろうと想像しています。それでも、参加してくれた人たちは、その少数だけどなつかしい仲間やスタッフたちとの話しに楽しい時間を持っていただけたのではないかと感じられました。

 というようなことで、参加されたのは現在(この1〜2年)ミーティングに来られているメンバーと家族の方が中心でしたが、どんなパーティーになるのか気をもむまでもなく、みんなそれぞれにいろいろな人たちとの会話を楽しんでいただけていたようで、企画した人間としては、やってよかったと思いました。

 振り返ってみると、以前は毎年クリスマスパーティーをやっていましたし、もっと濃密な時間となる宿泊ミーティングもやっていたのですが、いまミーティングに来られている人たちは通常のミーティング以外には経験されていないのだということに、今回思い当たりました。これからは、このようなパーティーや、そして宿泊ミーティングもまた、やってみることを考えてみたいと思います。

 ただ、こんな行事を毎年定例としてやると、「今年もやらなければならない」と企画するスタッフも、そして参加する方も苦しくなるのだろうから、全く不定期に、そろそろやってみたいなという気運が高まってきているのが感じられるようになったときにやることにすればいいのだと思います。だから、メンバーや家族の方が、そろそろまたやってみませんかと思うようになったら、ぜひその思いをスタッフに伝えていただければと思っています。

 

あれからもう3年が                    Rei

 お久しぶりです。こんにちは。

 私が最初に手紙を書いたのは、19991017.とお達者くらぶだより第14号に載っていますから、もう3年があれから経っているのですね。お忘れになっているかもしれません。

 私は2000年の4月に大学生になり、今は、もう3年生です。就職活動が始まり、忙しくなってきました。3年間、私は元気でやってきました。虚飾の症状も起こさないできました。山岳部に入り、毎年いくつかの山を登るほどです。

 大学の友達に、私の「拒食(摂食)障害」については話していません。

 しかし、送られてくる「お達者くらぶだより」には必ず目を通しています。私は、「摂食障害」を忘れるつもりはありません。心のバランスが崩れたら、いつでもまたつき合うことになるから・・なるかもしれないからです。そして、私と同じ苦しみを持っている仲間がいるからです。くらぶには、結局、通えずにいますが、その存在を大切に思っています。今でも、摂食障害に関するテレビ番組や雑誌の記事が、つらくて見られないことがあります。私には、少なくとも障害を持たない人たちよりは、仲間の苦しみが伝わってきます。

 うまく書けませんが、私はお達者くらぶのことを、仲間を、とても身近に感じています。

 119日のパーティーには参加しようかどうかとても迷い、結局、行かなかったのですが・・・。

 人生の分岐点に立つとき、私は必ず、摂食障害で一番苦しんでいた頃を思い出します。大学入試(受験)を決めたとき、そして、これからの就職活動で。摂食障害を引き起こしたのは、高校2年の終わり頃で、進路に悩んでいた時でした。だからかな・・・。

 自分の思うままに書いてしまったのですが、少し聞いてほしくて書きました。(こうすることで、自分の気持ちに整理がつく気がします。日毎に寒くなりますね。お体に気をつけて。 H141124

10周年記念ミーティングと懇親会に参加して **(HP上では匿名とします)

私がセルフヘルプグループに辿り着いたのは、いまから10年くらい前です。その頃、東京には二つのセルフヘルプグループが存在して、毎日通っていたのを覚えています。グループに通うと「なにがどうよくなるのか」という疑問も持たず(それほど重症だったのかもしれませんが)、いまから思うと、なんとなく楽しくて通いつづけていたような気がします。グループミーティング自体に出席するのが久しぶりで、はじめて参加したときの「とまどい」を思い出してしまうような緊張をしてしまいました。

また、今回、久しぶりにミーティングに参加したからこその、気づきがありました。

言いっぱなし聞きっぱなしというミーティングのシステムは、本当に自分のためにしゃべるものなのだなあとも改めて感心しました。最近、仕事の関係で、大勢の人の前で話したり講義をしたりすることがあるのですが、「相手が引きつけられるような話題」であったり、「相手が受け取りやすい表現」を心がけていたりすることがほとんどです。それだけに、自分の話を自分のためにする、それを仲間たちが受けとめてくれているというミーティングというものに、改めて「これはすごいやり方なんじゃないか」と今更ながら驚きました。

それと、久しぶりに自分の話をしようとして、困ってしまったという体験をしたことも付け加えておきます。自分の話をするというのは、大変でありまた貴重である作業なのだなあと。

 

グループを支援してくださっている先生方とも、初めてお会いしたにもかかわらず非常にお話がしやすく、うまく表現できないのが残念ですが、10年という時間の厚みを感じました。

東京ではセルフヘルプグループのみならず、精神科デイケアを含め、沢山の治療期間や居場所があります。が、地方ですとなかなか仲間たちや理解していただける援助者と出会うのは困難だと思われます。私自身も地方出身者なので「いいなあ福島は」と感動してしまいました。

 

福島は近いようで遠いところですが、またぜひお伺いしてみたくなる会でした。今回は10周年記念ミーティングと懇親会に参加させて頂きまして有難うございました。

平成14年11月29日

 

 

『自傷する少女』            ##(HP上では匿名とします)

少女たちは何故自傷するのか。

「真っ白くぼやけたこの世界に現実感を与えてくれるのは、自分の手首から流れる真っ赤な血だけ。」

これは、自傷癖のある友人、俗に言う「リストカッター」の少女が言った言葉だ。

彼女の手首、腕、脚には幾重にも重なった自傷の痕があった。特に左の手首は、幾度にも渡って傷つけられたせいで、皮膚が硬くなり、小さな力では傷もつかなくなっていた。

 少女たちは何故自傷するのか。

自傷は、一般的に、狂言自殺の一種だと思われている。

そんなことをするなんて馬鹿げている、周りの人間を心配させようとしてそんなことを仕組むのはやめろ。こんな批判を受けることがままあるのだ。

だが、実際には、自傷は、真っ白な世界に一瞬でも現実感を与えるための術の一つに過ぎないのではないか、と私は思う。

 私自身、リストカットはしないまでも、世界が真っ白になってゆく感覚の中でずっと生活していた。

 自分は何故ここに存在しているのかという疑問。

 もし明日の朝になって自分が消えてしまっていても、この世界は何も変わることなく回っていくのだろうという確信。

 口に入れたものをすべて戻してしまい、それでも抑えられない吐き気に苦しんでいる自分すら、何かに隔てた遠くに感じるような感覚。

 自分が空気の中に拡散していく気がして、それを留めて置こうにも、その術を知らなかった。

 自分が本当にこの場所に存在しているのかどうかもあやふやになってきて。

 それを確かめるために、私たちは様々なことをする。

血が出るまでやわらかい皮膚を爪で引っかいてみたり。

肉が見えてきてもひたすら爪を短く短く切り続けたり。

自分の容貌がいきなりとても醜く見えて、髪の毛をばっさり切り落としたり。

 自傷は、このような、さまざまな手段のうちの一つであるのではないだろうか。

ほかの方法よりも、より傷が明白で、そして、より有効な手段なのかもしれない。

 

 自分の存在を知覚するためにはどうしたらいいのか。

私の知っている少女たちは皆、一様に、誰か(特に、同じ痛みを抱えている同性)に触れていることが好きだった。

誰かに触れることで、自分の存在を知ることができた。

自分のことを何も知らない人間と表面だけでかかわるのを嫌悪していながら、触れ合える相手を欲していた。

 だが、相手が常に自分を見ていてくれることに執着するあまり、少しのすれ違いにも傷ついて、また手首を切ってしまう。

嫌われたくなくて、自分の悪いところをひたかくしにしようとして、それが辛くて、でもやめられず、辛さが溜まっていって、また手首を切る。

 自分の存在を知覚するための相手が、自分のそんざいをあやふやにする原因となってしまう。

そんなときは、血を流している自分自身の存在さえ、希薄になってしまう。

 

 自分自身の存在を疑うことのない人に対して、「何も知らないくせに」と思う。

だがしかし、知らなくても、知ろうとすることは出来る。

反対に、同じ苦しみを持つ者同士だと、お互いの立場に共感するだけで、そこから動き出すことは難しい。

 

私は、自分自身の経験から、自分の存在をちゃんとわかるようになるには、自分の表面だけでなく醜いところも、すべて知った上で、抱きしめてくれる人の存在が必要だと思う。自分を肯定してくれて、自分はそこにいると断言してもらえることが、どんなに助けになることだろう。

 

一度自分を見失ってしまうと、そこからまた自分を見つけ出すためには、大変な努力が必要だ。そして、それには、当人一人だけではなく、他の人間の暖かい手助けが必要だと私は思う。

 

心に残った言葉たち                  香山雪彦

 前号で摂食障害フェスティバルのことを報告しましたが、その中でそのフェスティバルで聴いて印象に残った言葉をいくつか並べました。その号では原稿がいっぱいになったのでそれ以上書けなかったのだけれど、私の心の中にあるものをうまく言い表されてしまったようなそれらの言葉に私が感じたことを、もう少し追加しておきたいという誘惑を、前号を見返したときに強く感じました。それで、それらの言葉から私の心に湧き起こってくる思いを書きたいと思います。

 

 サポートとよけいなお世話の間で葛藤している

 これは、国立精神神経センター(千葉県市川市にあります)の病院で摂食障害などの診療にあたっておられる伊藤順一郎先生のシンポジウムでの発表の中の言葉です。

 私もいつもこの間で揺れ動いています。(「よけいなお世話」くらいならまだいいのだけれど、私の場合は「いらないお節介」にもなってしまうこともあります。)相談にのっている人に対して、いくらその人の訴えていることに共感してあげていても、「それは詰まるところあなたの問題だよ、あなた自身がやらなければ解決しないんだよ」と言ったとたんに、その人は突き放されたと感じて、信頼してもらえなくなり、心を閉ざしてしまうかもしれません。逆に、あまりにも身動きがとれない状態にいるみたいだからと、ちょっと手助けの手を出してあげると、その時にはその人は楽になるかもしれないけれど、その人自身で解決する力はついていかないし、こちらに依存してしまうようになるかもしれない、一番避けなければいけない共依存状態にだって陥ってしまうかもしれません。

 私は、こんなふうに揺れていると身動きがとれなくなってしまうこともよくあるのだけれど、医師なら、目の前にいる人に何か言ってあげなければならないし、何とか回復の方への手がかりを示してあげなければならない、この揺れをどこかで止めなければならないのでしょうね。(私は医師としては活動していないので。)私は何年も知っている人からの電話の中で、この揺れが止められずに「うーん」とうなっていると、「先生は何も感じないのですか、何も言ってくれることがないんですか!」と、がちゃんと切られてしまったことが何度もあります。相手の人によって、この揺れの幅のどこで止めるのがよいかはみんな違っているし、一人の人でもその時期やその時の状態で全く違うでしょう。それをいつもぴたっと間違いのないところで止められるのは、神様しかいないのでしょう。私たちは人間ですから、せめて真剣に揺れてあげることしかできない、と開き直る他はないようにも感じます。難しいです。

 

 専門家はいつも評価の眼が入るような気がする

 これは、上の言葉と同じ伊藤順一郎先生がある本人の言葉として話されたものです。

 小・中・高等学校のスクールカウンセラーについてのエッセイか何かだったと思うのですが、「学校の先生たちは生徒を評価する立場にいる人である。評価する人には誰も決して本当の姿は見せない」と書いてありました。だから、そんな評価のシステムの外にいるスクールカウンセラーが必要なのだ、というわけです。(養護の先生も、そんな役割を持っているのでしょうね。不登校になるかどうかのぎりぎりにいる人たちが、保健室なら行けるのは、単に養護の先生がやさしいからというだけでなくて、そこでは評価されないという安心感があるからでしょうか。)

 医師やカウンセラーも、相談にのっている人がどんな状態にいるのか推しはかって治療法を決め、薬を使ったりやめたりするならその効果を評価しなければなりません。これが学校の先生たちの評価と同じと受け取られて心を開いてもらえなくなると、治療者はつらいですね。どうしたらそんなふうに心を閉ざされてしまわないかは、ただただ治療者の力量なのでしょうか。

 私は、力量もあるだろうけれど、それよりも、その人の目線の高さではないかと思います。いかにたくさんの症例をこなしてきた熟練の医師でも、上から見下ろす立場で見ていたら、人との関係にきわめて感受性の高い摂食障害の人たちなら、この人には評価されていると感じるでしょう。苦しんでいる人と同じ高さに立って、一緒に苦しみ、一緒に考えてあげれば、時間はかかっても必ず心を開いてももらえるのではないでしょうか。医師やカウンセラーは、自分たちを治療者と考えるからこんな評価の立場に立ってしまう、治療者ではなく、援助の職にいる人間と思えばそれを少しでも免れるのではないかとも思っています。

 

 上に書いたことは、あるカウンセラーの人が言った次の言葉にもつながります。

 治してあげようなんて思っていない、一緒に生きていこうよと思っている

 このことは私がいつも考えていることです。今ものすごく苦しい状況にいる人は、ちょうど水に溺れている人のように、救いを求めてもがいているでしょう。そんな人には、この手につかまって!と手を差し出してあげます。(しかし、それはその手に自分からつかまってもらうだけです。私がその人をつかみあげてあげるのではありません。そんな力は私にはありませんし、たとえその力があってそうしてあげても、共依存に陥って身動きできなくなるでしょう。)だから、手を差し出したその時には私の方は地上にいるわけで、ちょっと位置の上下関係ができるかもしれません。しかし、あくまでもそれは一時的な関係であり、その人が溺れていた水から這い上がって楽に生きられるようになったときには、同じ地面の上に立っている人間として、縁あって心を通わせあった人間どうし並んで一緒に生きていこうよ、といつも言うのです。

 また、自分がなぜこんなに苦しいのかの洞察がかなり進んできている人なら、答は既に心の中にあって、ただそれに自信がないだけという場合もあります。医師やカウンセラーよりも遙かに深く知っていることもよくあるのです。そんな人に評価は必要ありません。共感してあげるだけでいいのです。私は心からそう感じています。

 

 しかし、長崎から来たというあるお父さんは手を挙げて次のように言われました。

 私達が治してあげる、親の私達が頑張らなくて誰が・・

 この発言はシンポジストの人たちの発表の終わった後の質問・討議の時間でしたから、たぶん自助グループの情報なんかについての質問だったと思うのですが、その中でこう言われたその口調は必死な思いの、すごい強さが感じられました。

 しかし、それを聞いて私が思ったのは、ただただ、この人の娘さんはつらいだろうな、ということです。その強さが彼女を追い込んでいるのかもしれない、といって、それから逃げ出すのは、全く未知の世界に裸で放り出されるようなもので、とても怖くてできない。ひょっとしたら、彼女自身が心に解決をすでに持っていたとしても、そのお父さんの強さに押しつぶされているのかもしれない、そんな感じでした。

 お父さんが、「ごめん、もう自分には力がない、何もしてやれない」と、彼女の前で手をついて謝ったら、一気に回復への道に動き出すかもしれない、そんなふうにも感じました。親も(そして援助者も)自分の無力を悟ろう、そして、子どもたち(といっても、もう思春期を迎えたり、過ぎたりした、一人の人です)と同じ家族を構成する(あるいは、縁あって心をふれあわせることになった)一人の人として向かい合おう、自分自身の問題にもちゃんと向かい合おう、必要なものはただ誠実さだけだ、そんなふうに思っています。

 決めつけてほしくない

 これは回復へのきっかけの最初の兆しを得るまででも、まるまる10年以上かかった本人の人の言葉です。

 摂食障害に苦しんでいる人たちは、なぜ自分がこんなに苦しいのか全く訳が分からないから苦しいのです。一方、医師やカウンセラーは、そんな人たちについて勉強してきているし、その人以外にも何人もの人を見てきて、その勉強したことを裏付けたり少し修正したりして、自分なりの理論的な枠組みを作っています。そんな2人が力比べをしたら、勝ち負けは決まっています。「あなたはこうなんですよ」と医師に言われたら、たとえそう言われたことに落ち着かない感じを抱いたとしても、「それは違います」なんて反論できるわけがありません。

 この言葉を言った人も、医師やカウンセラーから「やせ願望」とか、「成熟の拒否」とか「家族の愛情不足」とか言われて、ただただわかってもらえないという気持ちばかりが強くなっていったようです。そうしたら何も言えなくなります。そんなふうに凍りついていくばかりだった心が解け始まることになったきっかけは、この人の心を解釈するのではなく、ただ「つらかったね」と言ってくれたカウンセラー(2つ上の、「一緒に生きていこうよと思っている」と言った人です)の一言だったと、体験談で言っていました。そして、この人が「そんなふうに決めつけないでほしい」と言えるようになるまで、実に15年の歳月がかかりました。

 力のある立場にいる人ほど、その言葉で人を黙らせ、傷つけることもできるものです。政治の世界ならそれが勝者になるのでしょうけれど、人を救うべき医療の世界では、人を黙らせたらそれは負けなのだと、私は心にしみて思いました。

 

 必ず治る、と私は思う。けど、一人で太刀打ちできるものではない

 この言葉も、上と同じ本人の人の言葉です。同じことを前号でのぞみさんも「この暗闇から抜け出すためには、自分ひとりの力では絶対に無理だと私には思えます」と書いています。そして「仲間、家族や援助者の存在…それに頼ることを良しとして、自分に許してあげる勇気を持つことが、回復への大きな一歩ではないでしょうか。人を信じて、頼るというのは、すごく、すごく怖いけれど。」と続けています。人を信頼し、頼って、かえって傷つくことも、間違いなくあります。だから怖い。だけど、お達者くらぶで仲間に出会えて、信じてもいい人がいるのだということがわかり、そうして周りを見渡せば、救いの手がたくさん出ていることや多くの仲間がいることに気がついて、それでこの病気との戦いが、たった一人の孤独な戦いではなくなった、と、のぞみさんは書いているのです。

 私も、その、一人で戦う人のわずかでも助太刀になる、信じてもらえる人間でありたいと思います。ただ、悲しいかな生身の人間で、私より感受性の鋭い摂食障害の人たちの心や求めるものを読み間違うこともよく起こってしまいます。そんな間違いをしてしまったときは、ぜひそれを私に伝えてください。それを伝えてもらえれば、それで勉強しなおして私も成長させてもらえます。間違いを指摘されたらプライドが傷ついて「そんな生意気なやつなんか・・」なんて言うことは絶対にありません。57年生きてきて、それくらいの余裕だけは持つことができているのではないかと思っています。そして、間違ったことについては素直に謝りますので、許してください。

 この言葉の「絶対に治る」というのも、私は本当だと思っています。過食だってリストカットだって、なんだってしてもかまわない、とにかく生き延びてください。生き延びてさえいれば、必ず「生きていてよかった」と言える日が来ます。そのことを、私は長くかかわってきた人から、経験として知っています。

 ついでですが、次のような不登校についての文を読んだことがあります。

 誰でも行っている学校にどうして行けないのか不思議で、疑問は解決されていない。

 これはある大学(福島ではありません)の同窓会誌に出ていた文章の中にあったのですが、なんと、これを独断的な文章を連ねた中に得意げに書いたのは精神科の医師なのです。精神科の医師とは言っても、行きたいけれど行けないという人の不安・恐怖・苦しさを理解できない人がいるのは仕方ないでしょう。私だって、摂食障害の人たちの苦しさが本当にわかっているのかと問いつめられ、責められれば、答えに詰まるかもしれません。けれどこの人は、不登校や引きこもりの人たちに対するカウンセリングを「ひ弱な国の極め付きの日本的なもの」であると、切って捨てているのです。その上、「そんな人たちは戸塚ヨットスクールにでも・・・」と書いています。そんなことをしたら、ただでさえ傷ついている心は取り返しがつかないくらいにずたずたに引きちぎれるでしょうに。

 これを読んだときに、私は怒りが湧き起こるのを止められませんでした。それで、次の年の同窓会誌にそのことを含めて書いた文章を投稿したら、えらくプライドを傷つけられたようで、さらに次の年の同窓会誌に、「ウイークエンドプシヒアータ(週末に暇に任せて精神科医のまねごとをする医師、とでもいう意味なのでしょうね。英語とドイツ語の混じった変な言葉ですが。)は自分の専門のことをやっておれ、精神の問題は自分たち専門家に任せておけ」と書いていました。社会学者の上野千鶴子氏は「売られたけんかは買う、乗りかけた船は下りない」と言われていますが、私は自分のやっていることを信じて疑うことを全く知らない人とけんかして時間を浪費するのはもったいないから、これ以上は放っておこうと考えています。(まあ、もう一言くらい書くかもしれませんが。)私は精神科の医師をしているつもりもありませんし。

 こんなことを書いたのは、「一人では闘えない、援助を求めるのも勇気である」と、一つ上の言葉について書いたけれど、その援助を求めるのに、相手の肩書きは何の役にも立たない、と言いたいからです。この人はわかってくれないと、少しでも感じたら、やめて別の人のところに行けばいいのです。医師なら、はしごすればいい。出会って話してみたら、心がすーっと解けて(溶けて)いくのを感じることがきっとある、そんな人が援助を求めるべき人でしょう。

 とは言っても、その心があまりに強く固まっているときには、溶けるのに少し時間がかかることもあるかもしれないので、お達者くらぶのミーティングが、こんなところは絶対にいやだと思わない限り、繰り返してきてみてください。ミーティングに拒否感を感じた人も、状態が変わればまた受け付け方も変わりますから、いつかまた試しに来てみてください。久しぶりの人も大歓迎です。

 

 

お達者くらぶ事務局(連絡先)

 事務局は福島県立医科大学(960-1295福島市光が丘1番地、電話024-548-2111)付属病院精神科病棟ナースステイション(電話内線3435)の七海、佐藤(尚子)です。看護婦さんたちは勤務が不規則で、この事務局に連絡がつきにくいことも多いと思いますが、その時は生理学第二講座 香山(内線2130)に連絡してください。ただし、お達者くらぶやそのミーティングについての問い合わせなどは遠慮なくかけていただいてよいのですが、個々の問題についての相談には応じられません。それは、同じように見える人でも、例えば抱いてあげるべきなのか突き放してあげるべきなのかなど、全く違った対応が必要になることが多くて、電話ではとても責任ある対応が不可能だからです。ご理解ください。