〈〈〈〈〈福島お達者くらぶだより〉〉〉〉〉
第23号 2002年 3月 31日 発行
お達者くらぶだより第23号をお届けします。
久しぶりにみゆきさんから手紙をもらいました。それ以外に原稿を集める努力を、つい仕事が忙しかったもので、怠ってしまっていて、そんなときには、今までにも何回かそんなことがあったのですが、つい編集している私(香山)が自分で書いた原稿で埋めることにしました。今回載せるのは、摂食障害なども重要なテーマとしている学会が出している雑誌に頼まれて書いたエッセイを少し変えたものです。
それでもいつものページ数が埋まらず、少ないページのまま出そうかなと迷っていたら、フィオさんからインパクトのある手紙が届き、ここに出してもよいと言ってもらえました。これからも、メンバーの本人や家族の人たちの生の声をできるだけ載せたいので、みんな、思っていること、おなかに溜まる恨みつらみ、その他何でも吐き出して、お達者くらぶだよりあての手紙に書いてもらえたらうれしく思います。
お達者クラブは創設10周年になります
福島お達者くらぶは今年の秋で創設からちょうど10年になります。私(編集者香山)には、何とか10年やって来たのだな、という思いと、まだ10年にしかならないのかという思いの両方がありますが、専門の病院やクリニックのスタッフが指導する治療グループは別にして、こうやってコンスタントに続いている集まりは、東京など大都市の自助グループ以外には私達の知る限りほとんどありません。この10年、ミーティングの日に本来のミーティングの代わりにセミナーを行ったのも含めると、まったく一度も欠けずにやってきたことだけでも、自分たちをほめてやりたいと思います。
今、私の手元に、創設の翌年にまとめた、創設当時のメンバーの名簿があります。本人は37人の名前がありますが、その中には今もミーティングに来られている人はいず、その人たちが今どうされているか、追跡していません。お達者くらぶは、連絡が必要なことがありますから出席された人に住所などは必ず聞きますが、私達スタッフはメンバーの人たちを治療の対象と考えたり研究材料にしたりしているわけでは全くなく、あくまでも来たい人が来たいときに来るための集まりなのですから、そんな追跡はしていないのです。
特に私(香山)はずっと家族ミーティングに出てきましたから、本人には知らない人も多く、ちょっと残念な思いもしないわけではないのだけれど、無理に顔を覚えたり覚えてもらったりするよりも、自然に顔なじみになる人もいるということでいいのでないかと思っています。
それでも、今でもときどきお達者くらぶあてに手紙をくれたり、家族の方が1年に1度くらいでも出てこられて本人はどうしていますと伝えてくれたりして、どうしているかわかっている人もたくさんおられます。その中には、お達者くらぶを卒業していったと言うことのできるような、ちゃんと仕事を持って自立している人、あるいはまだちょっと危なっかしい感じも残っているけれどその道に踏み出している人、ドタキャンをしそうになりながらも結婚してみたらちゃんと続いていて子供もいる人、などが何人もおられます。その人たちでも、まだ心の苦しさが完全になくなったわけではない場合もあるようです。それでも十分に、何とか人生に充実を感じる時もあるのでしょう、自分の人生を自分の力で生きていっているのだと感じられます。
少数、今でも苦しみをかかえ続けている人もおられますが、その人でも今も成長を続けていることが読みとれる手紙をくれたり、普通の人にはとても書けないような心を深くえぐる文章を書いてくれたりしています。そのような手紙を読ませてもらうと、心に愛おしさが充ちてくるのを感じます。
そのような、今はミーティングに来なくなった人たちが、久しぶりにお互いに顔を合わせるための同窓会のようなパーティーを、この号の最後のページに広告するように、ちょうど10年の記念日になる11月のミーティングの日に行いたいと考えています。この会報を読んだ人は、ぜひともその日をあけておいてください。詳しいことはいずれ夏頃にメンバーの人たち全員に送らせていただきます。
また、10周年を記念して、セミナーは昨年やってすぐにもう一度するのは難しいのですが、公開の講演会を、福島以外の町でやりたいと考えています。とは言っても、他の町ではどんな会場を借り、どのように宣伝するかはなかなか難しく、これは各地区の保健所内にある福島県精神保健福祉協会の各支部に働きかけて、そことの共催で行えないか、今、働きかけているところです。もし自分の町で講演会をしてほしいという希望がありましたら、その地区の保健所に働きかけてもらうと実現しやすいかもしれません。
久しぶり(2年ぶり以上)の手紙 みゆき
お久しぶりです。お達者くらぶだよりを楽しみに読ませて頂いてます。あたし自身、回復者とか、そんな気持はありません。むしろ、それをかかえながら生活をしてます。(あらゆる面)摂食に限らず、お達者に来る人はみんな真面目できちょうめんな子が多いから、特にそれが悪いことではないんですよネ。(あたしも含めて)対人面をとっても、すごく気にしすぎてしまう。でも、気にすることは摂食に限らず、皆(世間一般世界中の人々)同じ感情を持つんだと思います。ただ、それが強いか弱いか、それ(原因のもの)があったからの行動や感情の出し方(表現の仕方)が違うだけだと思ってます。それが食べ吐きという表現になる人もいれば、カラオケ行って発散する子、ドライブして気をはらす人さまざまであり、それの違いじゃないのでしょうか?それを責めることは誰にもできないし、もちろん自分自身も受け入れて、許してあげないとですネ。
こんなことを書いている私は最近、自分自身が(心の面の方が)疲れているんだと…思ってます。
"頑張らなきゃ"っていうあせり、プレッシャー(仕事の面)人への気使い、人からの反応もものすごく気になります。
自分と他人は同じじゃないのですから考えも違ってあたり前なんだけど、言われると自分自身を否定されたような受けとめ方をしてしまうもう一人の自分がいるのです。
もう片方の自分では、自分が思ったような反応が帰ってくるわけじゃないことも理解してるし、皆に同じ考えを持たせることなんかも無理なこともわかってるんですよ。
又、皆に好かれたいという願望(100%不可能)が強く、いい人でいたいために言えないことも多かれ少なかれあり。
これを言ったらきっと嫌われるんだな?とか…。
全てのことをわかっていながらも、頑張ってしまう自分、無理してる自分、言えない自分を責めてしまう自分。
疲れてきました。
でも、何とかコントロールしながら仕事をつづけ、毎日の生活を送っています。
また機会があったら、お達者にも顔を出したいと思います。では、また。
生き抜く手段 フィオ
食べ吐きの生活を続けてもう7年になる。吐くことに罪悪感を抱きながらもここまで続けてきてしまった。こんな生活が恥ずかしくてたまらなかった。誰にも知られたくなかった。けど、本当は心のどこかで、そんな自分でさえも受け入れてくれる人を探し続けていたのかもしれない。
私は最近まで自分の幼い頃の記憶があいまいであった。断片的には憶えているものの、それらが連なった記憶として思い出す事はなかった。それはおそらく、無意識のうちに防衛規制がはたらいていたんだと思う。私は小学校の低学年の頃、学校帰りにおそらく大学生かそこらの年齢であろう若い男の人から性的いたずらを受けた。もちろんその行為がどういうことか分かるはずもない。しかし、幼い私でもずっと心にひっかかった経験であった。年齢を重ねるにつれ、その時のこと、その行為の意味が分かるようになり、"私はなんて事をされてしまったんだ"とか"私はなんて醜い人間なんだろう"、そんな感情ばかりがいつの間にか私の中に根付いていた。
私が過食嘔吐に走るようになったのは高校生の頃からだった。きっかけはごくごく単純で、数年付き合っていた恋人との別れからだった。彼に新しい恋人ができたためだったが"別れたのはきっと私が悪いから、私が醜いから"などと自分を責め続けるようになってしまった。その頃からであろうか、行動として攻撃の矢が自分に向くようになったのは。つまりは食べては吐きの生活になったのは。"痩せたい"という気持ちは今も変わらない。どんなに周りにそのままでいいと言われようともその思いだけは変わることはない。この数年の間に築き上げられた性格は変わるには容易じゃない。
私の評価基準は体重やテストの結果といった数値だけ、そして他者(世間)の評価もその通り、そう思ってきた。かたちあるものは必ず結果が返ってくる。自分に自信のない私にとって、言葉よりも何よりもそれが唯一の自分の価値をはかる手段となっていた。だから体重にしてもテストの結果にしても、少しの変化に敏感になって、満足のいかない結果が生じると、とことん自分を責めつづけ、努力(?)させ続けてきた。ある人はゆがんだ考えと言うかもしれないが、この考えが私には当たり前だった。
結果、目に見えるものだけを信じるようになり、それ以外は信じない(信じられない)ようになっていた。抑圧された感情をそういったかたちあるものに向けることが私の支えだった。過食嘔吐にしても、そうすることでなんとかバランスを保っていたのかもしれない。正直、今もまだ人を信じるということがどういうことなのか実感できないでいる。しかし、世の中には信じてもいい人間がいるということをなんとなく感じ始めている。
信じないというのは自分を守るために貫き通してきたことなのかもしれない。本当は誰かに頼りたい、受け入れてもらいたい、"信じたい"と思っているのだけれど、あまりにもその思いが強すぎて相手を追いこんでしまう。共依存というかたちにいつの間にかなっている。それは決してそれぞれに幸せをもたらしてくれるものではなく、傷ついてばかり。自分への信頼を確かめるために人を試すような行動をしてばかりいた。そして離れていくと、"やっぱりな・・・"とまた自己嫌悪になり、さらに自己評価が下がり、人への信頼が消えていく。ずっと悪循環してばかりだった。恋愛にしても友人関係にしてもそう。人のやさしさがどういうものかわからなくて、はきちがえて、自分を傷つける恋愛ばかりしてきた。
けど、やっぱり自分の一番根底にあるものは、親との関係だったかもしれない。一見我が家はごく普通の家族。普通というのがどういうものなのか分からないけれど、むしろ周りからは"仲の良い家族"に見られていたことは確か。そう見られるように偽り続けてきたんだと思う。私は幼い頃から病気ばかりしてきた。ある病気は非常にめずらしく、原因や治療法も分からずいくつもの病院を転々としてきた。のちに特定疾患の認定を受け医療費を免除されるようになったが、それまでの医療費の負担は相当なものであったと思う。誰のせいでもないのに、母は私を丈夫に生まなかったことを責め、私はそんな母を見ているのが辛かった。この生活が十年近く続き、私は病気になった自分をにくらしく思っていた。
私の父はあまりにもお人良しで、優しすぎて、会社のことや他人事といったさまざまな面倒をいつも引きうけていた。責任を抱えてこんでいた。借金や転職、私の知るところでもかなりあった。母はそんな父を責め、責めきれない時はそのはけ口が私にきた。母が私に向けることで少しでも楽になるのならそれでいいと思った。両親が私や兄を学校に通わせるために一生懸命働いていた姿を知っていたので、私はこれ以上家に何か問題を持ちこみたくなかった。自分の病気のこともあったし。自分のことで彼らを傷つけてはいけないと思ってきた。自分さえ我慢すればいいといつも思ってきた。
だから何でも親のいうことを聞いてきた。彼らを傷つけまいと、彼らが望むようにふるまってきた。そんなことばかりしていると、自分が望むことがただのわがままでしかないように思えてきてよけい我慢するようになっていた。けど、もしかしたら自分の方が自立することに目隠しをしてきたのかもしれないと最近考えるようになった。また共依存かな。良かれと思ってしてきたことが私の自立の道を阻み、親自身をも苦しめていたのかもしれない。
しかし最近私は変わり始めている。ようやく自立への道を歩み始めたのかもしれない。実際は意志が弱く、何度も引き戻されそうになり、その度に立ち止まり、身動きが取れなくなるが、私の前には手を伸ばせば救い出してくれる手がある。たとえつかめなくてももう元へは戻りたくない。いや、戻れない。過食嘔吐、自己評価の低さ、親との関係、いろいろなことが私を苦しめてきた。生きていても仕方ない、生きる価値が無い、その思いは恋人との別れをきっかけに私を過食嘔吐へ追い込み、さらに自己評価を下げ続けてきた。最近ようやく分かったこと、それらが決して独立したものではなく、全てがつながって私の周りを取り巻いていたということだ。
過去の記憶が蘇るようになって、自分のことがわかるようになると、今までの自分のこと、親のことがよくよく分かるようになってくる。そして、改めてそれらと向き合うこととなる。これがまた本当に辛い。それを乗り越えない限り楽になれないと言われても、今の私にはどんな生活よりも今のこの振り返る生活が辛いかもしれない。今までの私なら、自分の辛さを口に出す事は出来なかった。甘えやわがままでしかないと思ってきたからだ。けど、今は少しずつ外へ出せるようになってきた。それができるのはその気持ちを受け止めてくれる人がいるから。私はこれからもその人を試し続けてしまうのだろうな。
数値やかたちあるものに価値を置いてきたせいか、すぐに結果を求めてしまう。早く変わりたい、楽になりたいと思っている。私はまだトンネルの出口が見えてきた段階。あせらず、ゆっくりと、これが私の課題ですかね。
生きる苦しさを過食症で表現した学生たち
福島県立医科大学医学部 生理学第二講座 香山雪彦
私はこのエッセイの依頼を受けたとき、心は揺れました。理由は2つです。このエッセイ欄は論文とは違って心の生の動きが書かれていていつも感銘を受け、雑誌が届くたびに楽しみにして読んできました。しかし、だいたいこのエッセイはそうそうたる経歴を持った人たちが書かれているのに対して、私は話を聞いている苦しさを抱えた自分の大学の学生を中心とした人たちとクライアント・患者としては接したことのない、いわば素人の存在なのに、こんなところに書いてもいいものだろうか、というのが1点です。もう一つは、書くとしたら自分が接してきた人たちのことに触れざるを得ないけれど、その人たちはまだ症例報告として書けないくらいに生き方の模索を進行させている人たちであることです。
しかし、せっかく私を名指しして書かないかと誘っていただいた機会に「書きたい」という思いを抑えることはなかなかに困難でした。それで、実際に出会った人たちの個人的な状況などにはほとんど触れないことにして、私がこの数年感じているところを"エッセイ"として書きたいと思います。
私は医学部で神経生理学の教育と研究を担当する教員です。(一応過去の実績が認められて、教授として一つの研究室を主宰しています。)さまざまな仕事が増えてしまったので研究はもうほとんど若い人たちに任せ、学生の教育へのさまざまな工夫を加えながらの取り組みと並んで、今の私の生活(というより、心)を大きく占めているのは、生活に支障をきたすほどの苦しさを心に抱えさせてしまっている若い人たちに手をさしのべることです。これは大学内では教師としての仕事の一つと言えなくもないのですが、それをはみ出して、摂食障害の人たちの会を世話するスタッフもしています。
私は卒業後8年間医師をしていたのですが、それは麻酔科・ICU(集中治療室)で、人間をひたすら機械として見て、それが壊れないように、うまく機能するように心を配るということが仕事でした。生理学に転じてからも、脳のある部分はどのように働きどのようにその働きが調節されているかという、機械としての特性を調べることが仕事だったと言えます。それとはまったく違う、人を機械としてみたのでは何も解決しない世界にかかわるようになったわけですが、これは別の大学にいた頃に受けた衝撃からです。
十数年前のことですが、県人会の集まりでよく知っていてちょうどそのときに講義を持っていた3年生の学生(女性)が1人の同級生を私のところに連れてきました。過食症で身動きできないまま留年を重ねているのを「今年何とかできなければやめる他ない」と言うので、助力してやってもらえないかということでした。私は摂食障害のことなど何も知らなかったので気軽に引き受けたのですが、深くかかわるようになるにつれ、人間の心の底知れぬ深さ・恐ろしさのようなものに触れて、人生40年ほども生きて世の中とか人間とかが多少はわかってきたような気がしていた、そんな自信のようなものが根底から打ち砕かれた気がしました。
それで摂食障害の世界の勉強もするようになったのですが(専門家向けの本も、一般向けの本も乱読しました)、今の大学に移ってしばらくした頃、精神科の医師や看護婦の有志が世話をして摂食障害に苦しむ人たちの自助グループ的な会ができ(会員たちが「福島お達者くらぶ」と名付けました)、その医師に誘われて私もスタッフとして活動することになりました。しだいに本気になって、今では、毎月行われるミーティングのうちの家族の会を司会したり、図書の貸し出しをしたり会に寄せられる手紙の対応をしたり会報の編集をしたりと、私の心の大きな部分を占めるようになったのです。
そんなふうに摂食障害に苦しむ人たちにかかわってその心を受け止めていると、学生の中にも苦しさを抱えている人たちが見えるようになってきました。出席も試験の成績も悪い人たちは、ふつうに見るとどうしようもない怠け者に見えることが多いけれど(実際そんな学生もいるのだろうけれど)、実は心に抱えている苦しさのために(そしてそれを誰にも言えずに)身動きできなくなっていることが多いのです。その苦しさは子供のころからの親との関わり方から来ていることが多い。私たちが見ている医学部の学生には比較的恵まれた家庭環境で育ってきた人が多いけれど、そのかわり親の期待といったものをずしんと背負ってしまっている人も多く、そのプレッシャーに押しつぶされている人もいます。
そんな中で自己評価が低くならざるを得なかった人たちは、自分の眼も他の人の眼も信じられず、信じられるものは具体的な数値で出てくる物だけになりがちで、医学部の学生たちなら中学・高校時代には試験の点数や順位がその評価を与えてくれます。しかし、大学に入ってしまうと成績なんて役に立たなくなり、他に頼るもののなくなった女の子たちは体重にしか頼れなくなる、その苦しさが医学部の学生たちにとっては精神的にも肉体的にも負担の大きい(それが一つの通過儀礼になっている)解剖学実習のところで吹き出してしまう、という人たちを何人も見ました。
そんな人たちを、私達専門課程の教員も教養課程の講義を持つようになったことから私は早いめに発見するようになりました。出席不足や成績を理由にして呼び出したときに「よかったら話してみないか。」と声をかけて、それが私が深くかかわるようになった最初の人たちでした。その人たちから口伝えに話を聞いてもらえると知っておずおずと私のところに来る人たちも増えてきましたし、私は1年生に入ってすぐに持つことになった数回の講義の中で行動への依存といったことを話すようになったのを聴いて話しに来る人たちも出てきました。(私はもともと口から先に生まれたような、自分がしゃべりたい人間なのですが、その人たちの話を何時間でも聞けるとは自分ながら驚異です。私は変わったのでしょう。)
そうやって話しに来るようになった人たちに、私は本当に共感を覚えます。そして、その人たちにもっと楽に生きられるようになってほしいと心から願います。そのためにできるだけのことをしてあげたい。共依存にならないようにと意識して私の方から連絡を取ったりすることをできる限り避けているので、そのまどろっこしさにいらだちながら、ただ待っていることが多いのですが。
できるだけのことをしてあげたいと思うようになる、そのきっかけになったのは、私がまだこんなことを十分に勉強する前に講義を持った学年の人でした。その人については直接に話を聞いていないので、たぶん家族関係が背景にあるのだと想像するのですが、詳しいことは何も知りません。自傷行為のようなことを繰り返し、その結果として生じた障害から、留年と休学で10数年かかって6年生に在籍するところまでは行ったけれど、体力的な問題でそれ以上続けることができなくなって退学した(せざるを得なかった)人です。彼女が強烈な想い出に残っているのは、学期末試験で出した数行の文章で説明することを求めた10題ほどの問題に、それらの問題を作りながら私はこれはこのように答えてほしいなと考えていた、全くそのとおりの答を書いてきたことです。(答えていない問題もありましたから、最高点ではありませんでしたが。)ものすごく優秀な学生たちは何人も知っていますが、彼らはだいたい知っていることを何でもかんでも書くことが多いのに対して、そんな必要なことだけを出題者の考えにピッタリと添うように書いた人はそれ以前にも以後にも一人もいません。私は、この人は人の気持ちが読めるに違いないと、戦慄に似た気持ちを持ちました。その人を何ともしてあげられなかったことが、今でも悔しくてしかたがない。
その後、私の部屋で涙を流しながら話していった人はたくさんいます。(そのために、私はいつもすぐ手の届くところにハンカチをおいています。)その中で、さまざまな理由から医学部にいても自分が楽に生きられる道はないと意識して退学した(あるいはそうしようとしている)3人の人たちのことが特に強く心に残っています。(そのうちの少なくとも2人とは今でも温かい交流が続いているし、もう一人ともそうありたいと思っているから、「残っている」と過去のように書くのは違っているのですが。)
医学部にいる学生たちや医師たちは自分たちの存在を誇りに思っていることが多いし、医学部にいるだけでそれをプライドにできると思っている人は医学部の外にだっています。しかし、その(全く虚飾であるけれど)誇りを捨てて自分の道を求めた彼女たちは、すさまじく苦しい中を生き抜いてきたこととも合わせ、本当にすごい、すばらしい人たちだと思います。私は彼女たちと出会って、人の存在価値についての感覚を根本的に変えました。
そして、他の人たちも含めてこれらの人たちに関わってきて、私が彼女たちを支えてきたのではない、それもあるだろうけれど、そうやって心を通わせてきた中で私の方が勇気をもらっているのだと心から思います。時に私は「先生はやさしいですね」と言われることがあるのですが、自分がやさしい人間だなんて考えたことがなかった、もともと自分にしか興味のなかったような私の中にやさしさが本当にあるのだとしたら、それは彼女たちにもらったものだと感じます。
若い人たちが起こす事件が社会に衝撃を与えることが多くなりました。昨年、1年生の講義の一つに「思春期14歳・17歳の危機」というテーマを取り上げたのですが、彼らのうちの現役入学の学生たちは14歳の少年が起こした神戸や那須の事件の時に14歳、バスジャックなどの17歳の少年が起こした事件の時に17歳だった人たちであることに気がつき、感慨めいたものがありました。もっと年上の人たちも含め、そのような事件を起こす人たちと共通のものを、過食症のような「症状」を外に見せているかどうかにかかわらず、たくさんの若い人たちが持っていることを感じます。それらの社会的背景などを考察するのは私の任ではないけれど、生きることを苦しく感じている人たちがつかまることができるように手をさしのべることは続けていきたいと考えています。(学生の中にはさしだされた手にけっしてつかまろうとしない人もいて、それはどうしたものでしょうか。)
私は脳生理学の最前線を知っている人間ですから、「快」は脳の中にあるドーパミンを伝達物質とする神経細胞の活動で作られること、不安や恐怖は大脳の側頭部にある扁桃核という部位が働く学習により生じること、動物が行動を起こすときの前頭前野皮質のいろいろな領域の働きなど、心は脳の活動自体であることを知っていて、研究が進めばそこでの伝達物質の働き方などを修飾して治療をやりやすくしてくれる薬のもっと良いものも出てくるだろうと思います。しかし、その科学でもって人の心を決定的に治療することはできないだろうとも思っています。心の傷に由来する苦しさを癒すことができるのは、結局、人と人との温かい心のふれあい以外にはないだろうと強く感じているのです。その温かいつながりというものがあるのだということを若い人たちに伝えていくことをまだだいぶん残っている(と思っている)人生の仕事とできればこれ以上の幸せはありません。
福島お達者くらぶ10周年記念パーティーの案内
福島お達者くらぶでは、1992年秋の創設からちょうど10年の記念日となる本年11月のミーティングのあと、同窓会のようなパーティーを行います。もうお達者くらぶを卒業した方、何となく足が遠のいている方、久しぶりに懐かしい顔に出会ってみませんか。いずれ夏頃になったら具体的なことを決め、皆様に案内と出欠の問い合わせを出させていただきますが、下に記す日時をぜひともあけておいてください。
日時: 2002年11月9日 午後4時30分より (これは決定)
場所: 福島県立医大内 光が丘会館 (予定)
会費: 3000円くらいの予定
当日は、創設当時に毎回来てミーティングの司会をしてくれていたNABAの鶴田桃江さん、創設当時の中心的なスタッフだった本多教一先生、天沼幾緒先生、平内てつ子さん(お母さんのようだった看護婦さん)など、懐かしい顔の方々にも出席してもらえるように呼びかけています。(ももえさんは予定に入れていると言っていました。)
だいぶん昔、宿泊ミーティングをやっていた頃に、部屋にビールをどさっと持ち込んで、徹夜に近く腹に溜まった思いのありったけを語りあったお母さんたちも、ぜひこの機会にもう一度集まってみられませんか。
まだ最近になって参加するようになった人たち、その家族の方々も、ミーティングではあまり見ない仲間やスタッフの姿が見られるかもしれませんから、どしどし参加する予定を入れておいてください。
お達者くらぶの案内と事務局(連絡先など)について
福島お達者くらぶは、拒食症・過食症などの摂食障害に苦しむ人たちの会です。こんなことを言ったらおかしいと思われるんじゃないかというような心配なしに心の中を吐き出し、同じ苦しさをかかえる人たちがたくさんいる、自分だけじゃないと知って安心し、そこで友達、仲間を得るためのミーティングを中心に活動しています。それは治療のための会ではありません。何の束縛もない、ふらっと行ってみようかなと思ったときに行ける集まりです。
家族のミーティングも行っています。こちらには医師のスタッフが出席し、とまどっているようなときにはそれはこういう意味ですよといった発言をすることもありますが、基本的にはこちらも、他では言えない苦しい事情を吐き出して楽になり、同じように苦しみ、それを乗り越えようとしている仲間の存在に励まされる会です。
福島お達者くらぶは、医師、看護婦、心理士の有志がスタッフとして運営にあたっています。会費はありませんが、参加者には少額の実費を負担してもらっています。事務局は福島県立医科大学(960-1295福島市光が丘1番地、電話024-548-2111)付属病院精神科病棟ナースステイション(電話内線3435)の七海、佐藤(尚子)です。看護婦さんたちは勤務が不規則で、この事務局に連絡がつきにくいことも多いと思いますが、その時は生理学第二講座 香山(内線2130)に連絡してください。《香山も会議や講義で不在にしていることがありますので、一回で捕まえられなくてもめげないでください。夕方5時以後でも、かなり遅く8時か9時くらいまでいることも多いと思います。》ただし、お達者くらぶやそのミーティングについての問い合わせなどは遠慮なくかけていただいてよいのですが、個々の問題についての相談には応じられません。それは、電話ではとても責任ある対応が不可能だからです。ご理解ください。