≡福島お達者くらぶだより≡
2022年 10月
1日発行 通算 第105号
福島お達者くらぶの30年を振り返る
福島お達者くらぶが毎月1回のミーティングを始めたのは1992年の11月で、この秋でちょうど30年になりました。10年目、20年目の時はそれまでの参加者に呼びかけてパーティーを行ったのですが、残念ながら、今はそのような集まりを行える状況にないのが残念です。
その創設当時のことを知るスタッフは香山だけになってしまいましたので、どのように始まってここまできたのか、今のメンバーの人たちにも知ってもらえるように、少し振り返ってみたいと思います。
その当時、拒食症・過食症の患者さんたちが精神科の外来に来ることが増えてきたのだけれど、医師たちはどのように対応するべきなのか、困惑するようになりました。それで、東京でようやく根付くようになっていた自助グループ・NABAを参考に、福島でもグループを作ろうということになって、そのNABAのミーティングを見学に行かせてもらい、毎月1回のミーティングを始めました。その発足から数年間は、本人ミーティングにはNABAの人が来て司会してくれていたのでした。
ちなみに、ミーティングが第2土曜日になったのは、それまでずっと土曜日は学校も会社も午前中は授業・仕事で午後半日の休みだった(半ドンと言われました)のですが、その年の夏から第2土曜日だけが丸一日の休みになったからです。(ちなみに、半ドンのドンはオランダ語の休日・ドンタクから来ています。福岡の祭り・博多どんたくのドンタクです。)
設立時のスタッフは医師5人に精神科病棟の看護師3人だったと思う、それだけ摂食障害の人たちを何とかしてあげたいと思っていた医師・看護師が多かったのだと思います。そのスタッフたちが、本人だけでなく、並行して家族ミーティングも行うようにしたのは全国で初めての試みでしたが、慧眼だったと思います。当時、アメリカでアダルトチャイルドという言葉(「機能不全家族に育って大人になった子ども」という意味です)が使われるようになっていたように、家族関係が摂食障害も含む依存症に苦しむことになる背景にあることがようやく考えられてきていた頃だったのですが、その家族もまた苦しんでいる人たちが多い、その人たちもなんとかしてあげる必要があると考えたのです。
ちなみに香山がスタッフに加わったのは発足の2〜3ヶ月後です。研究職で医師としては働いていなかったのですが、相談に来ていた学生たちに何人もの過食症の人たちがいて、その人たちの心の闇の深さに衝撃を受けて摂食障害のことを勉強していました。そのために何冊もの本を読んだけれど、その人たちから聴くこととどこかずれていると感じていた、それが「カナリアの歌−食が気になる人たちの手記」(どうぶつ社)という本を読んだとき、ここに彼女たちの本当の姿があると感じた、その本はNABAの会報「いいかげんに生きよう新聞」へのメンバーの人たちの投稿から了解を得た記事を集めた本で、そのNABAが関係するグループだったので加わらせてもらったのです。そこで毎月のミーティング(当時は家族ミーティングに出ていました)で勉強させてもらったことで、医大を定年退職してから精神科医として診療に携わるようになりました。
当時は現在のようにインターネットは発達しておらず、摂食障害についての情報が圧倒的に不足していたこともあって、本人ミーティングには常に十数人、家族ミーティングには20人以上の参加者がありました。何年かごとに行った公開のセミナーには200人ほどが集まり、その次の月の家族ミーティングに42人の参加があったときには一部屋に入りきれず、急きょ別の部屋を用意して二つのグループに分けたこともありました。
本人ミーティングの中心は中学生と高校生で、その人たちが発足当時の「福島摂食障害者の会」という名前ではちょっと困ると主張して「福島お達者くらぶ」という名前を作ったのでした。この老人クラブのような名前は10歳代の人たちの命名なのです。
一方、少数の20歳以上の人たちは雰囲気が違っていたので、その人たちのためには別にシニアミーティングを作ってあげる必要があるのではないかと考えたこともありましたが、そのうちにだんだんと年齢が上がっていって、今のように中学生はめったにおらず、高校生も少ない状態になりました。当時の人たちがずっと来て年齢が上がったのではなく、何年も苦しんだ末にたどり着いてくる人たちが多くなったのです。そのように年齢層が高くなっているのは全国のどの自助グループでも同じです。
福島お達者くらぶは常に数人のスタッフによって運営されています。スタッフは転勤などで離れていっても、また新しい人が加わってくれているのですが、みんな自分の仕事を持っていて、その事情で出席できないときもあるから、二つのミーティングを維持するには数人は必要なのです。スタッフによる運営によって、2000年代当初の頃まで地方都市では次々とできては続けられなくて閉じられるグループが多かった中で、私たちは30年も続けて来れました。スタッフは、ミーティングでは他の場では聴けない本当の姿に触れることができて、自分が成長できることを感じるから、全くの手弁当で続けています。
そのようにスタッフが運営にかかわっているのですが、上記のように自助グループを参考にして始めて以来、スタッフは医師・看護師・心理士という専門職と言っても教育的な役割を果たすのではなく、自助グループ的な雰囲気を守ってやってきました。どこでも話せなかった心の内を吐き出して、それが他の参加者にそのまま受け止められていることで楽になっていくのが自助グループですが、そのあり方を大事にしているのです。しかしそれだけでなく、スタッフが入った対話によって、なかなか言葉にならなかった思いが引き出されていき、意識できていなかった大元の問題に気づいていければ、と考えます。
それは家族ミーティングでも同じで、一人でかかえて苦しんでいた問題を吐き出して楽になるだけでなく、繰り返して参加していると自分が話すことと他の人の話を聴くことで自分の問題に気づき、人間的に成長していくことができることをスタッフは見てきました。治療者が主催する家族グループによくあるように、子どもをどう受け止めるべきかを教えることを目的にはしていないのです。
本人ミーティングの参加者は次第に減少して、最近はいつも数人以下、一人のこともあるのですが、それでも必要とされているし、今も続いていることに安心を感じてくれている人も多いので、これからも続けていきます。