≡福島お達者くらぶだより≡
2022年 1月 1日発行 通算 第102号
明けましておめでとうございます。今年こそは落ち着いた良い年になるように、と願います。
この号では、私(香山)が参加した昨年秋の日本摂食障害学会の学術集会で印象に残ったことを伝えたいと思います。
この学会は、本来は一昨年に開催される予定だったものがコロナ禍で延期されて、昨年もウェブ上での開催でした。大学の遠隔授業などにも用いられているZOOMというオンラインツールを用いた開催です。しかし、パソコンを介してでは積極的なディスカッションは難しく、そして学会というのは同じ分野の人たちに久しぶりに会うのが楽しみなのだけれどオンラインでは全く果たせず、物足りないものでした。
やっぱり、ちゃんと人の顔を見ながら話すことは大切です。お達者くらぶのミーティングはよほどのことがないかぎり集まりを続けたいと思います。
共同意思決定について
昨年の摂食障害学会で強く印象に残ったのは、杏林大学・精神神経科学教室の渡邊衡一郎先生の講演での「共同意思決定」(Shared
Decision Making)という言葉でした。苦しんでいる当事者と治療者が協同して治療を進めていく、ということです。そこで話されたことを(私の知識で補いながら)紹介します。
病気については、専門家である医師の方が圧倒的に多くの情報を持っています。だからどのような治療をしていくかは、昔は医師が一方的に「こうします」あるいは「こうしなさい」と決めていました。
今はネット検索でふつうの人もかなりの情報を持つことができるようになっていますし、患者さんについての情報は患者さん自身に属するものであるという考え方が強くなっていますから、そのように医師が一方的に決める時代ではなくなりました。それでも、ネットには怪しい情報も多いし、患者さんはそのような自分に都合のよいような(その時は楽だけれど病状をよけいにこじらせてしまうことになる可能性の高い)情報の方を選択してしまいがちなので、専門家の方からの意見は重要です。
一方、病気を抱えている人(患者さん)についての情報は圧倒的に患者さんの方がたくさん持っています。特に(摂食障害も含んで)慢性の病気の場合には、その病気を抱えてどのようにここまで生きてきたのかは、患者さんだけが持つ情報です。(摂食障害など、ストレスが大きく関係する病気の場合は、生き延びるために行ってきた手段・方法などを「コーピング」といいます。)
だから、双方の持っている情報をつき合わせながら、共同作業で治療の目標や方法を考えていくことが大事です。それが共同意思決定で、そこでは双方が治療同盟を結び、対等な関係でディスカッションを交わしていくことが必要になるのです。
その際に、治療者の方がまず尋ねるべきは「あなたはどのようなことを希望してここに来られましたか?」です。それは治療の目標を定めることになります。その目標に向かって治療を組み立てていくことになりますが、その希望する目標は必ずしも適切とは限らないので、そこでも専門家である治療者の意見は重要(というより必須)です。最終的には患者さんの考え方を中心にして決めることになるとしても、病気の本当の姿、特に予後(先の見通し)の情報は大切なのです。
そこで医師の方に必要とされることは、(1)今ではEBM(Evidence-based Medicine)という有効性が証明された治療しかしてはいけないことになっている、そのエビデンスについての知識を十分に持っていること、(2)EBMでは解決できない部分を補うためのNBM(Narrative-based
Medicine)に必要なコミュニケーション能力を持っていることです。しかし、このコミュニケーションを十分に行っていくには時間がかかります。医師はたくさんの患者さんたちを診ていかなければならなくて時間の制限がある場合も多いので、時間を節約するために適切な資料を準備しておくことも必要です。
患者さん(当事者)の方に必要とされることは、自分の目標をしっかり定めること、そしてそれとともに、エビデンスを持って示されることを受け入れて修正していくことができる柔軟性でしょう。かたくなに自分の考えを主張するばかりでは、最適な治療を受けることは不可能になるし、そのために必要な良い治療関係を結ぶことはできません。
ここからは摂食障害についての私(香山)の考えです。
拒食、あるいは徹底した食べ吐きで極端に痩せてしまって生命の危険が迫っている場合、自分の思いに反しても、栄養補給を図る医師の治療選択を受け入れてほしいと思います。なぜなら、その場合には脳が萎縮してしまっていて、まともな思考ができなくなっているからです。しかしそれにも増して私がそう言いたいのは、その状態で意に反した強制的な栄養補給で命をつないだ人たちには、心が落ち着いてきた時に「生きててよかった」と言った、その時の治療に感謝してくれた人がたくさんいるからです。(生命の危機ほどではなくても、このままでは栄養障害のために肝臓などの種々の臓器機能障害、特に骨粗鬆症で骨折を起こす可能性が非常に高い状態の場合も、それに準じます。)
そのような生命の危機が差し迫っているのではない、体重は生命機能の維持に必要なくらいには維持されているような、食べ吐きの人の場合はどうでしょうか。
その人たちには、「食べ吐きさえなければ、自分はやりたいことができる」(それで人生が開けるはず)と、食べ吐きを止めるための治療を強く希望する人たちも多くいます。しかし、食べ吐きやそれに合併することも多いリストカットは、その瞬間の苦しさをやり過ごして生き延びる手段(強力なコーピング)です。だから、抱えている生きづらさに変わりがなければ、例えば認知行動療法で食べ吐きなどが止まっても、コーピング手段として別のことをしてしまうことになるだけです。
例えばアルコールに手を延ばすと容易に依存症に陥って社会生活が困難になります。恋愛関係に救いを求めると相手との共依存の泥沼に陥ることになりがちです。処方薬に頼るようになると、つらさが強くなったときに一気に多量をのんで命の危険に直結してしまいます。
だから、食べ吐きを止めることが目標なのではなく、その生きづらさが何に由来しているのかを時間をかけて医師やカウンセラーとの共同作業の中で解きほぐし、理解していくことが治療として重要であると私は考えています。そのようにして、この生きづらさは、自分に責任のない子ども時代の重大な出来事への遭遇に起因する、あるいは子ども時代の安心を得られなかった環境の中で刷り込まれてしまったものだ、自分がダメな人間だからではない、と理解する。そしてそのような中でも自分は頑張って生きてきたのだと自分を認められるようになる。それが治療の目標になるのだと私は考えているのです。
その目標に近づくまでには時間がかかります。本当は止めたいのだけれど、どうしてもそれをしてしまう習慣に刻み込まれたような行動、そしてそれを必要とすることになった生きづらさを抱えた性格、それらを修正して行くには相当な時間が必要で、年単位になることが多いです。けれど、その先の何十年の人生を考えれば、時間がかかっても、この作業の意味は大きいでしょう。
そこまでの間、ストレスが強くなったときは、食べ吐きなんてしていい、腕に傷つけたっていい、それで生き延びればいいのだ、と私は考えています。この不安に満ちた社会の中で、誰だって何らかのコーピング手段を持って生きています。それが外に向かった暴力やいじめなどと違って、食べ吐きやリストカットは自分自身の体で引き受ける行動で、人に迷惑を及ぼすことの最も少ないコーピングですから。