≡福島お達者くらぶだより≡
2021年 7月 1日発行 通算 第100号
福島お達者くらぶがミーティングを始めたのは1992年の秋でしたが、それから数年して、みんながいつもミーティングに来れるわけではないから、来れない人たちにもつながっていてもらうために会報を出すことにしたいと考えてお達者くらぶだよりを創刊しました。それがついに100号になりました。1年に4号の発行は守ってきたので、25年(四半世紀)となります。それなりに頑張ってきたかと感じます。
最初は印刷して郵送していたのですが、印刷の手間、それを折って封筒に詰める作業はなかなかにたいへんで、封筒詰めはミーティングの後にスタッフ総出でやっていました。しかし、その紙代・封筒代はまだしも、郵送先が100人を超してくると郵送費もかなりかかるようになり、そこにスタッフの転勤で印刷機を自由に使えなくなりました(コピーだと費用はずいぶん高くなってしまいます)。それでこのお達者くらぶだよりをメールマガジンにしたのですが、発行はうんと楽になっています。
そして60号以後はバックナンバーをホームページで読むことができるようにしています。ぜひ読み返してもらいたい内容もありますので、時には開いて見てください。
自殺せずにすむために(前号を受けて)
前号ではコロナ禍の現在の「自殺」の状況について書きました。その最後に「自殺せずにすむためには、心に溜まっていく苦しい思いを吐き出して話せる場所が必要(お達者くらぶのミーティングはそのような場所として利用できる)」、「そこでは、感情を吐き出すだけでなく、その背景にある自分の人生の物語をトツトツとでも話すことが大事」で、そのことはまたの機会にと書きました。その「またの機会」として、この号はその続きです。
生きる力になるのは心の中に渦巻く思いを共有してくれる人の存在ですが、その際、感情の共有よりももっと強く生きていく力になり得るのは、物語の共有です。物語の共有とはどういうことでしょうか。例えば2005年に公開された「Always三丁目の夕日」という昭和30年代を描いた映画にあった場面ですが(いつもこのことを例に出すのですが)、売れない小説家志望の男が飲み屋の女の人に惚れて、想いを伝えるのに指輪を贈ろうとします。しかしお金がないから、指輪の箱だけ贈ります。「小説が売れたら中身を贈るから」という意味です。その女の人は開けて中身がないのを見て箱を返し、手を差し出して「その指輪をはめてよ」と言います。そこで男は(本当はない)指輪をつまみ上げて、その指に指輪をはめてやる(ふりをする)、そうすると女の人はその仮想の指輪を電気にかざして「まあ、きれい」と言うのです。その二人には間違いなく一つの物語が共有されました。
生きていく力になる物語の共有というのはそのようなことです。感情の共有でもいいけれど、できたら物語を共有する人がほしい。しかし、指輪の箱などに込めた思いは受け取ってもらえるとは限らず、「馬鹿にしないで」と突き返されるのが落ちでしょうから、ふつうは言葉が必要です。しかし、その言葉というのは「うざい」など、自分の気分・感情を吐き出すためだけの言葉ではだめで、自分の心の中にある思いを、たとえそれは切れ切れでも、それをつなぎ合わせて物語として話さなければなりません。
けど、様々に生きづらさを抱えて苦しむ人たちにとって、その物語は生きてきた中で安心を得られず傷ついてきた歴史ですから、自分で記憶から消して意識に上らないようにしているかもしれないし、記憶にはあってもそれが思い出されるたびによけいにつらくなるから、とても話せないことが多いでしょう。周りの人たちも、「あなたが悪かったのじゃないから、そんなことは忘れてしまいなさい」と言うでしょう。
しかし、どんな記憶も認知症にならない限り消えません。それでも出てこないように押さえ込むことはできるのですが、それは言葉にできる記憶だけで、言葉にならない恐怖など感情の記憶は決して消えずに心を縛り続けます。それ故、それが甦っても大丈夫なようにきちんと処理するためには、その傷の歴史を言葉にするほかないのです。それを誰かに受け取ってもらい、共有してもらうと楽になります。
けど、過食などに苦しんでいる人は、親子なら、夫婦なら、彼氏・彼女なら、あるいは先生なら、そんなことは「言わなくてもわかってよ」と思うかもしれません。しかしそれは単なる甘えで、その甘えは、親しい人間関係を壊すことになるだけです。なぜ、何がそんなに不安なのかは、物語の言葉にして伝えないと絶対に伝わらないのです。
しかし、話すことは恐怖の再体験になって、さらに傷つく可能性もあります。そして、そのような暗いうざったい話は聴きたくないという人たちには嫌われてしまうでしょう。けれど、話しを聴いてくれない人にしがみついていても不幸になるばかりだから、そんな人とは諦めて、別の人を探さなければなりません。その際に、そんな人生の物語を聴いてくれる人かどうかは、物語を小出しにして試していくほかありません。安心できる人かどうかは、話してみないとわからないのです。
そうだとしたら、そんなことをどうしたら少しずつでも話せるようになるでしょうか。それには、この人には話しても大丈夫だという安心できる人間関係が必要だと、堂々巡りの議論になります。この堂々巡りをしながら、ゆっくりと進んでいくほかないのです。
そのように話す場を持つ、そのような聴いてくれる人を求める、そのために一歩を踏み出す勇気を持ってください。そのような場があり、そのような人がいることを感じ取れるために、まずはお達者くらぶや各地の自助グループに参加してみることが、その一歩になります。
受け止めようとする人たち・家族への追加
苦しんでいる人たちが上に書いた堂々巡りから一歩踏み出すために、親をはじめとする周りの大人には、その言葉にならない訴えの基にある不安を聞きとる耳を持ってほしい。(その周りの人たちを責めているとしたら、それは聴いてくれるかどうかを試す行動です。そして、そうやって責めるのは自分にとって一番大切な人だけです。)聞いてくれる耳があり、それが自分を決して裏切らないものだとわかれば、人はその不安の源にあるものを言葉にして語ることができるようになって、拒食・過食やリストカットなどの行動で訴える必要はなくなっていきます。
その不安の言葉を聞きとれる耳を持つためには、人は自分自身の不安を感じとり、それに向き合っていなければなりません。例えば子どもに幸せのレールを引いてその上を走らせてやりたいと考える親がたくさんいますが、それは子どもをコントロールしたい、もう少し強く言うと支配したいのであり、そのコントロール欲求は自分自身が意識できていない不安から出てくるものです。子どもでなくても、連れあいや付き合っている人の携帯の着信・発信記録やメイルをチェックしたいと感じたり、実際にチェックしてこれは誰だ、どういう関係だと責める人もいるでしょう。それはまさにコントロール欲求であり、不安がそれを引き起こしているだと知って欲しい。その欲求の背景にある自分の不安に気づき、ごまかさずにそれに向き合う勇気が必要なのです。