リュージュ(龍樹)の伝言

第25回:プラハにて

2013/06/30

 今、私はプラハに来ている。

 

 ヴルタヴァ川(ドイツ語ではモルダウ川)の流れは静かで、今月初めに洪水があったことが信じられない。それはプラハの街並みもそうで、確かに歴史をみれば少なくとも1993年に現在の新しい国家が建設されるまでは戦乱と政争が続いていた国の首都であるのに、そんなことはどこの国のことかと思えるほど明るく美しく人々は穏やかだ。

 

 1990年に私はカナダのブリティッシュ・コロンビアで家庭医療の研修を始めた。その時の同期のレジデントのひとりが旧チェコスロバキアからカナダへ移民として来た女性だった。ある時あるパーティーで彼女は私たち同期生に一冊の本を見せてくれた。それはプラハの街を写した写真集だった。鉛色の空に映しだされた街の表情は沈鬱で重かった。建物の一部をなす鉛色の扉、柵、鎖、そしてからまりつく太い蔦。中に住む市民たちの顔はみな囚われ人のような表情をしていた。「だから私たちは国を捨てたの」と彼女は言って同期生を見渡した。

 

 たぶんその時が、私にとって、国家や民族がひとの人生に与える影響の深さを理解せずにはいられなくなった最初の瞬間なのだと思う。確かにそのレジデントの家族が祖国を捨てなければならなかった理由は繰り返される闘争と経済的混乱、そしてそれに翻弄される悲劇的な市民生活だった。他にも、ドイツ語教師だったためにホロコーストから逃れることができたハンガリー人、敵性外国人として強制収容所へ行かなければならなかった日系カナダ人、文化大革命で学者としての将来も含めすべてを奪われた中国人、留学中に祖国の政変で家族が全員囚われてしまったカンボジア人、等々。カナダでレジデントをした時に家庭医として関わった人々の顔が浮かぶ。

 

 私たちは「歴史」といえばあまりに政治や経済の歴史で彩られすぎたものしか知らない。広い意味での「政権交代」が繰り返されるのが歴史だ。しかし一方で、そこの自然、その地域の人々の生活の営み、衣食住、喜怒哀楽、病気と健康、さらに生と死についての考えの「歴史」についてどれだけ知っているだろう。ひとの人生に影響を与えた社会は記録されるが、そのために影響を受けた人々の人生そのものは、いくつかの芸術作品を除いてはほとんど伝えられぬままだ。

 

 こうしたコンテクストがあって、海外での講演などで私が日本のことを「my country(私の祖国)」と呼ぶ時には特別な思いがある。私は前述したような国家や民族に起因する苦しみをそれほど感じなくても生きていける日本人であることの幸せを確かに実感する。だが一方で、そのような日本でも繰り返される不正と不平等をけして許してはいけないと、黒水晶でできたステンドグラスのように悲しい静謐さにあふれたプラハの街並みの写真を想い出しながら、自分に戒めているのだ。

 

 今、写真集とは印象がまったく異なる明るいプラハに来ているのはWONCA(世界家庭医機構)の世界学術総会とそれに関連する会議に出席するためだ。素晴らしいことがたくさんあった。明日は、プラハからオランダのナイメーヘンへ移動して、さらに家庭医療エキスパートとの仕事は続く。それについてはまた別の『伝言』で話したい。  

 

 (言い訳がましくて恐縮だが)最近この『伝言』が滞っていたのは書くのを怠っていたからではない。書くことが忙しかったのである。実は、プライマリ・ケアについての新書版の書籍を書き終わったところで、7月末の出版を楽しみにしている。これにまつわるエピソードについても、いずれ『伝言』で披露したい。



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