FUKUSHIMAいのちの最前線
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72一日2回、さらに一日1回の頻度で開かれていました。各部門から代表者が出席し、私の所属講座からは私以外にも出席者がおりました。私の参加者としての役割は、本学の活動を記録し世界に向けて発信すること、翻って海外メディアの報道内容や海外からの問い合わせ内容について出席者に伝えることでした。―アメリカのご家族やご友人に対して、どんな思いがおありでしたか。ノレット先生◦家族に送った最初のメールは、かなり手短なものでした。「福島で非常に大きな地震があり、海外でもニュースになるだろう。私は無事だ。」このメールは、スタッフの安全と輸血部の状況を確認してからすぐに送信しました。この頃、東北地方で2万人もの人が突然命を奪われてしまったことなど、知るよしもありませんでした。海外にいる私の家族や友人は、被害状況が分かると日本のために涙を流し、助けになりたいと考えました。彼らは正確な情報を求めていましたが、メディアが必ずしも正確な情報を提供しているわけではありませんでした。それで、私が彼らのためにその役割を果たすことになったのです。―福島にいらっしゃったのはいつですか。またその理由について教えてください。ノレット先生◦私が福島県立医科大学に来たのは2008年1月のことでした。2004年から、私はオーストラリア赤十字血液サービスで医学教育プログラム部長をしておりました。また、クイーンズランド州の輸血医療専門家でもありました。とはいえ、私はオーストラリア国民ではありませんから、私の後任となるオーストラリア人の医師が見つかればその職を去らなければならない状況にありました。当時、大戸教授と私はある論文を共同で書いていました。そのジャーナルがもうすぐ出版されるというとき、私は自分の所属として「オーストラリア赤十字」と記載することはもうできませんでした。大戸教授に理由を説明すると、彼はこう尋ねました。「では福島にいらっしゃいませんか。」私が最終的なお返事をする前から早速大戸先生は事にあたり、出版された論文には私の所属先として福島県立医科大学と記載されたのでした。―それはさぞかし大きな変化だったと思います。日本の食べ物についてはいかがでしょうか。ノレット先生◦お寿司や刺身を食べられるかと、よく聞かれますね。ええ、食べますよ。福島でも指折りの寿司職人のうち、一人は附属病院の食堂で腕をふるっていらっしゃいます。納豆も玄米も好きですね。いまでも地元でとれた玄米を買って食べています。原発事故後、精米することでセシウムが取り除かれるというのを聞いて、玄米はやめて白米にした方がいい、と強く勧められたこともありました。しかし原発事故後は何ヶ月にもわたっ

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