FUKUSHIMAいのちの最前線
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56 救急患者は3日間で緑93名、黄44名、赤30名、黒1名の合計168名であった。多くは浜通りからの患者さんであった。水の供給が止まると、病院機能が止まる。透析ができない。生化学検査ができない。滅菌洗浄ができない。患者食ができない。トイレは流せない。手は洗えない。透析患者が喫緊の問題で、救急車やバスで東大病院など他県の施設に移送した。水なしで使える血液ろ過用補充液サブラットなど緊急医薬品の必要性を痛感した。3月25日に頭頸部癌学会理事長と頭頸部外科学会理事長名で頭頸部がん患者の受け入れ情報が送られてきた。郡山市の太田西ノ内病院ではこの制度を利用して頭頸部がん患者を送った。時宜を得た適切なご支援に感謝したい。 原発の水素爆発などにより浜通りから多くの避難民が発生した。浜通りの病院に入院中の患者は自衛隊の救急車やヘリコプター、全国の自治体からの応援の救急車、バスなどで、次々と送られてきた。電話が通じないので、来る、来ない、いつ来るんだ、やっぱり来た、など情報が錯綜し混乱した。衛星電話がつながりやすかった。本院では多くの避難患者が来ても良いように外来玄関待合スペースや看護学部にベッドを並べておいて、到着した時点で収容していった。真夜中になることも早朝になることもあった。いわきや相双地区14病院の搬送対象者は約1300名あり、搬送中継トリアージ対象者は175名、うち入院は125名であった。原発から放射性物質飛散により、約500名の放射線サーベイを行った。本院は原子力災害第二次緊急医療専門施設であり除染施設や体内被ばく線量等の検査設備を有している。ただ、設備は一つしかないので一度に数十人来ても対応できないため、自衛隊の除染車やタンク車が常駐していた。広島大学や長崎大学からREMAT(Radiation Emergency Medical Assistance Team)など多数の放射線専門家が応援に来ていただいた。 1週間は職員は風呂に入れず、おにぎりとカップラーメンとペットボトルのお茶だけで過ごした。町のスーパーやコンビニから商品が消えた。ガソリンもなかったので遠くに買い出しにも行けなかったし、通勤も難しくなってきた。この間の患者食は備蓄してあったのでほぼ通常の食事を提供することができた。病院内で一番のごちそうであった。検食係がこれにありつけた。3月18日㈮に上水道が開通した。ちょうど講演会中でみんなから大きな歓声が上がった。前線から一歩も引かずになんとか持ちこたえることができた。復旧があと3日遅かったら病院機能は停止しお手上げの状態であったであろう。大地震から2週間acute phase退避患者対応急性期「地震・津波・原発事故における災害医療:前線基地としての大学病院」福島県立医科大学附属病院副病院長 大森孝一(2011年6月9日 日本頭頸部癌学会「東日本大震災報告会」)より

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