FUKUSHIMAいのちの最前線
576/608

570──本県の復興と再生には震災前までの医療機能の回復はもちろん、震災を機に災害、放射線医療を本県医療が担うことを求められています。菊地 あの震災から1年2ヵ月が経ち、医療人としての死生観を問われたと感じています。「自分は医療人としていかに生きたか」あの震災をブレずに、逃げずに生きてきたか。そのことに誇りを持てるか─と、まさに全人格が問われたように思います。では大学はどうだったのか。批判は多くあるそうですが、大学人のスタッフ、病院のスタッフはあの時に総崩れにならずに保てた。セルバンテス(スペインの作家)ではありませんが、「非難、批判する人はいつも安全なところにいる」もので、いまならば「あの時、ああすれば」とか何とでも言えます。あの時に当事者として現場で闘っていた人たちが、踏み止まり、医大が1週間崩れずに一糸乱れず行動したことは原発事故対応としても歴史に誇るべきだと思います。 震災後すぐに医学部長をトップとするチームを県の災害対策本部に送りました。県立であることのハンディキャップもありますが、今回はむしろ県立であることが非常にうまく働いた。県と医大が一体となって県の執行部と我々とで信頼関係が構築され、意思決定が極めて速かった。何かあれば互いにすぐ行き来する関係が、あの修羅場で本当に役に立ったし、本県にとってもわが国にとっても不幸中の幸いだったのではないでしょうか。あの医大の1週間とその後の復興計画策定を通じて、次世代に何らかの形であの出来事を伝えることが我々に課せられた社会的使命と考えるに至りました。私は解釈抜きに事実の羅列を記述して、そこから読み取るのは後世の検証に委ねようと考えています。 医療人の立場から原発事故の教訓を思いつくままに言うと、残念ながら日本には医療も含めて複合災害への備え、想定はなかった。それからもう一つ感じたのは、支援する側の支援がないことですね。これは盲点でした。ある程度の時期を過ぎると医療材料や食料などはどんどん寄せられてきますが、大学病院のスタッフ、自衛隊、警察の予備能力はなかった。これは効率化のツケですよね。病院も外部委託やアウトソーシングで予備能力がない。しかし、患者さんを引き受けて転送先を探す際に車のガソリンもなく、食料なども自前で調達しなければならない。支援する側の支援というか、支援する側の後方支援体制が全くなかったことが明らかになった。 病院のリスク管理の観点からすると、南相馬市立病院も本学もドクターヘリや給食などの業務を委託しています。しかし、こういう大惨事の時には親会社は社員の引き揚げを判断しますから、まさに有事の際に給食は出ずにヘリも動かない。危機管理面からすると本当に委託でいいのか、委託のままならどういう契約が望ましいのかを国民的な議論で考えて頂きたいですね。つまりは、コストの問題です。このような壊滅的な状況を招いたままでは少なくともいいわけがないが、災害に強い医療、災害に強い病院にどこまで県民、国民の税金を使っていいのかという議論ですね。 ここから先は大学のトップとしてではなく、個人的な意見です。津波や地震がゼロとすれば、原発事放による放射能汚染はマイナス地点からの先の見えない厳しく長い戦いです。だからこそ、10年先に明るい希望が持てれば、いまの苦難を乗り越えられる。つまり、将来のビジョン、展望がいま県民に必要なのです。その展望を描くのは県の行政であり、大学の使命だと思います。日ごろから我々の医療側や県民、患者さんにとって「あんなものがあればな」と思っていた設備、システムをこの際実現させたらどうかというのが僕の基本的なスタンスです。既成の組織やシステムやルールの延長線上では、この苦難財界ふくしま 2012年7月号「特別インタビュー/2012医療特集」掲載県民健康管理センターは人類共有の財産になる公立大学法人福島県立医科大学理事長兼学長 菊地 臣一医療・介護のベクトルを県民の生活基盤へ医療人としての死生観を問われた

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です