FUKUSHIMAいのちの最前線
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532 災害発生直後の超急性期は、地震津波による傷病者対応に当たりました。外来休止、定期手術休止により県内医療最後のとりでとして全面的に3次救急体制です。続いておこった原発事故による避難指示期には、避難命令による入院患者・要介護者の後方避難中継に当たりました。避難指示区域内の病院・介護施設から昼夜を徹して緊急搬送された多数の要介護者を一時保護し、緊急入院を要する患者以外は後方病院に転送します。緊急時利用可能スペースと看護学部教員という緊急時の看護力を有する人材を抱え、あらゆる疾患に対応する総合医療リソースを有し、県内各病院とも連携をもつ大学病院ならではの「緊急時広域医療搬送ハブ機能」です。 しかし、福島医大で抱えた問題は複雑でした。地震発生直後からの多くの建造物倒壊と断水は病院機能を停止させました。直後に発生した津波による被害で、災害超急性期には誤嚥性肺炎、軽度の低体温、骨盤骨折傷病者が連続搬送されました。福島医大病院は、水道供給を断たれ、貯水タンク内残存水を用いた縮小医療を余儀なくされたのです。通常の医療すらままならぬ状況の中で福島第一原子力発電所の事故が発生したのですから、福島県民は、地震・津波・原発事故のまさに三重苦を背負ったわけです。 当院では徐々に明らかになる原発事故に対応する為、救急医と放射線科医が自然発生的に被ばく医療チームを形成して対応にあたりました。3月14日に最初の水素爆発による外傷患者が搬送され、腕神経叢引き抜き損傷、胸部挫傷と診断しました。汚染は軽度で除染可能でした。翌15日には3人の傷病者が原発サイト内から搬送されました。そのころ院内では、相次ぐ被ばく傷病者の緊急搬送、進行する原発事故と情報不足、地震津波による病院機能の低下と疲労から、多くの職員が原発事故の不安におびえ、核という得体のしれない物質に漠然とした恐怖を感じ始めたのです。緊急被ばく医療に関するマニュアルは存在しておりましたが、周知されてはいませんでした。 15日午後に、被ばく医療の専門集団である長崎・広島大学合同REMAT(Radiation Emergency Medical Assistant Team)が加わり、初めて原発の現状について科学的考察に基づいた現状説明をうけました。原発の危機的状況について告知を受けた我々は、被告知者特有の精神状態を呈しました。一方で、被ばく傷病者は継続して発生していました。翌16日には拠点化後最初の原発事故患者が自衛隊ヘリで搬送されました。 被ばく医療班の立ち上げは、学外専門家からの適切なリスクコミュニケーションに大きく依存しました。「傾聴」と「適切な被ばく医療の知識」を核とした危機介入により、崩壊寸前であった我々の士気は回復し、文字通り再生したわけです。「肝をすえて」緊急被ばく医療の立ち上げを行う素地が出来上がりました。 緊急被ばく医療班を「危機介入者」と位置づけ、「一定の危険を伴う業務」であることを周知させました。さらに、緊急被ばく医療班の目標を「原発事故の早期収束」とし、そのために「原発作業員の健康管理に寄与する」、「原発作業者の健康安全安心を支える」と定めました。目標達成のために「共通の敵」たる原発の現状を知り、備えるべき対象を「原発作業者」の他「公務危機介入者」、「一般住民」に分類して業務の整理を行いました。 13人の被ばく傷病者を収容し、うち内部被ばく疑いの傷病者3人を放医研に転送しました。 現在も自衛隊が常駐し「除染」業務を担当、学外支援チームとともに「緊急被ばく医療」を展開しております。傷病者の「生理学的重症度」と「被ばく・汚染度」を比較し「外傷診療」「汚染検査と除染」の優先順位を決めて診療しています。一方、毎朝多職種会議を開催して知識充塡(異業種ミニ講義)、原発情報・達成目標・達成事項・未解決問題を明確化するとともに、会議は短時間をモットーに組織運営しております。 消防組織は地方公共団体の組合により形成されています。福島県沿岸部の相馬・双葉消防は、公務で救急救助にあたる危機介入者でありますが、同時に地震・津波・原子力災害により被災者でもあります。経営母体が被災したストレスから、その業務に支障をきたしつつありました。一方で、現在、彼らの身体・精神・放射線影響に関するケアに関する法的公的支援システムは欠如しております。 当院緊急被ばく医療班では、被災消防訪問を行い、彼らの身体・心・放射線不安が危機的状況であることを知り介入を行いました。 当初は身体・心・放射線被ばく検査のすべてを被発災当初の状況緊急被ばく医療班の立ち上げ緊急被ばく医療の実際公務危機介入者への支援福島の悲劇を福島の奇跡へ

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