FUKUSHIMAいのちの最前線
47/608

第1章FUKUSHIMA いのちの最前線41戦場と化した福島医大 原発事故の情報が錯綜する初期に、広島大学、長崎大学からの緊急被ばく医療支援チーム(Radiation Emergency Medical Assistance Team; REMAT)が、20㎞圏外への避難指示が出る中、自衛隊のヘリで福島医大に入ったのは空間線量率が福島市で急上昇した3月15日でした。20~30㎞圏内が屋内避難という新たな指示が出たにもかかわらず原発サイトの情報が乏しく、外部支援の立ち入り制限も加わり、危機管理の齟齬が現場を翻弄していました。ヨウ素剤の服用の可否も混乱していました。水も出ずまさに不安と混迷の渦中で、医大そのものが孤立無援の状況になりつつありました。この頃、原発からの汚染傷病者が福島医大に搬送されたことを契機に、福島医大、REMAT、自衛隊、JAEAとの共同作業で、除染車や測定者の手配から除染テント等の設置が寒い中で行われ、多数傷病者対応に向けたマニュアル作りも進んでいました。しかし原子力災害クライシス時の医療機関や公共機関の様々な決断を如何に行うべきかというコミュニケーションが全くなされておらず、もし政府や行政が混乱してできないならば、被ばく医療の経験のある大学としてできるだけのことを行いましょうという内容の連絡を長崎大学から先に支援に来ていた先生より受けました。 私自身、3月17日夜、菊地臣一理事長から携帯電話へ直接支援の要請があり、18日福島空港に降りましたが、入る人は少なく逆に脱出を試みる人たちで混雑していました。道路や町中は閑散として、唯一ガソリンスタンドが長蛇の車の列でした。病院長室の災害対策本部は1週間の激務で皆が疲労の色を濃くしていました。現状掌握が困難な中で、地域医療の砦たる責務を果たす必要性と、原発事故の国内外の対応経験を幹部にお話させて頂きました。夜は病院職員へ他の長崎大学からの専門家と共に放射線被ばくの対応について話をしました。オールジャパンでの支援体制が不可欠な事から、長崎大学の片峰茂学長にお願いし、4月1日には異例の早さで福島医大と長崎大学、そして広島大学の三者が学術交流協定書を締結しました。同日には国内放射線影響研究協議会の関係者にも医大に集って頂き、全面支援を約束頂きました。当初は原発安全神話と後手後手の政府対応の弊害もあり、情報不足と理解不足への説明や解説が主でしたが、その後の情報過多やイデオロギーによる社会の混乱により、医療人と社会との新たな信頼関係構築が求められています。初期の福島医大の被ばく医療を支えた仲間達が放射線災害医療センターを立ち上げ、よろず健康相談事業にも奔走中です。 (福島県立医科大学副学長 山下俊一)原爆被災地からの緊急被ばく医療初期支援の動き

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です