FUKUSHIMAいのちの最前線
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第4章患者救済に奔走した活動記録〈論文・研究発表〉FUKUSHIMA いのちの最前線407う患者に説明したが,錠剤の処方は希望されなかった。そのため,通院できる日まで手持ち分の薬で過ごせるよう,レスキューの回数を極力減らす等,工夫を行っていただいた。 避難住民で問題となるのは薬の問題だけではなかった。がん性痛の患者でより問題は深刻であった。震災後1カ月程度経過したある日,子宮頸がんの入院患者で,腕神経叢に腫瘍が浸潤し激しい上肢痛を訴えている患者が婦人科から紹介された。オピオイド,鎮痛補助薬を使用し,なんとか痛みを軽減することができたが,腫瘍は急速に増大しており,痛みのコントロールが十分に行える期間は長くないことが予測できた。一時的にでも自宅で過ごしたいという希望があったが,自宅が避難区域内であったため望みを叶えることができず,病院で最期を迎えることになった。短い期間であったが,痛みが軽減でき,自由に歩き回れる時期があっただけに,その間に少しでも家で過ごしていただくことができず,大変残念な思いをした。 福島県は,浜通り,中通り,会津地方の3地域に分けることができ,同じ県でありながら気候は全く異なる。福島第一原発は浜通りに存在し,その地域の気候は温暖であり,雪が降ることはめったにない。東北地方ではあるが,気候は関東地方とほぼ変わらないと思ってよい。避難者は,県内・県外の各地域に分散し,会津地方に避難されている方も少なくなかった。会津地方は日本海気候であり,雪国であるため,体調,精神のバランスを崩す方もいる。避難先での生活は健康な方でも相当なストレスであり,体調を崩されるのに,がん患者で,なおかつ痛みを抱えている方はさらに相当な負担を強いられることになる。全く知らない土地で,知らない人に囲まれて病気と闘っていくのは容易なことではない。ペインクリニック外来に通院しているがん患者のうちの一人に,避難先の環境になじめず,早く家に帰りたいと外来で涙を流された方もいた。ただただ話を聞くことしかできなかった。 避難区域内で在宅治療を受けていた終末期のがん患者で,仮設住宅に移動を余儀なくされた方がいた。しかし,仮設住宅のような狭い部屋では,がんの終末期の患者のにおいなどの点で同居している家族の負担も増える。患者は家族と一緒に最期を迎えたいと強く願っていたが,そのような理由のため,家族は同居に耐えられず,病院への入院を選択した。人生の終わりを自宅で,それが無理でもせめて家族と一緒にという願いすら叶えることができない患者もいたのだ。 現在,ペインクリニック外来は震災前とほぼ変わらない状態で診療を行えている。患者数も大きな変わりはない。しかし,未だに原発事故は収束しておらず,避難を余儀なくされている方も多い。また,大学病院のある福島市内でも家族は避難し,単身で働いているという人も少なくはない。 原発事故による問題は,痛み患者の状態を直接的に悪化させることはないが,それに伴う生活環境の急激な変化が,様々な問題を引き起こしている。われわれ医師は,それぞれの患者の状況に合わせて,適切でていねいな対応を取らなければならないと感じている。この問題は早期に決着がつくものではない。粘り強く適切な対応ができるよう努力し続けて行く必要がある。 震災から1年が経とうとしているが,福島県民は今も原発問題と向き合わざるを得ない状況が続いている。 最後に,震災に際し,多くの方々から激励の言葉,人的または物質支援をいただきました。この場をお借りして感謝申し上げます。文 献1)福島県立医科大学附属病院ホームページ,http://www.fmu.ac.jp/byoin/index.php2)福島県ホームページ,地震災害情報,http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID-DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=249143)管桂一,奥秋晟,岩間裕,他:救急活動に参加して,臨床麻酔19:956-960.1995

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