FUKUSHIMAいのちの最前線
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第4章患者救済に奔走した活動記録〈論文・研究発表〉FUKUSHIMA いのちの最前線393大学病院の立場からをしないようにするなど,給食の工夫が必要であった. 震災後8日目に水道が復旧し,外来は予約外来から,入院患者の手術なども中止された予定のものから再開した.以後,通常の病院機能を回復するまでには約3週間を要した,この頃にはガソリン不足が深刻となり,本院が郊外に立地しているため,職員の通勤手段の確保に苦慮した. 1 緊急被ばく医療 福島第一原子力発電所には震災当時6機の発電機があり,1号機の営業運転開始は1971年3月で,40年近く稼働している.震災の巨大津波によって緊急発電設備が被災したため,原子炉が制御不能となり,1~3号機では炉心溶融が起こり,1号機では震災翌日の3月12日に,3号機では14日に建屋が水素爆発した.原子炉格納容器の圧力上昇を防ぐために,ベントが行われ大気中に放射性物質が拡散した.周辺地域に対しては,震災当日から退避指示が発令され,4日後には半径30㎞圏内まで拡大された. 本院は二次被ばく医療機関に指定されており,震災翌日から発生した原発事故に関連して被ばく傷病者を受け入れた.本院に搬送された受傷者は8名であったが,いずれも被ばくは高度でなく,除染,創部の処置後に放射線医学研究所などに転院となった.その後も,原発事故収束に向けての作業が遂行されており,本院でも汚染傷病者発生に備えて,24時間体制で待機し,大規模災害に備えてシミュレーションを行っている.手術室も養生するなど汚染傷病者の手術に対する準備を行っている(図①,②)が,原発内,近隣の医療設備も整備され,幸いなことに除染を必要とする傷病者の発生はない. 2 避難患者の中継搬送 退避指示圏内の医療機関には,当時1,300名余りの患者が入院しており,政府主導で避難が行われた.当初,患者は福島県の西部に移送されたが,その収容能力も限界に達したため,その後は県外に移送されることとなった.本院は,前述のように断水していたために多くの患者を受け入れることができず,県内,県外への移送中継点として機能した.自衛隊や消防などのヘリコプター,救急車,バスなどで,数十人単位で搬送されてくる患者を一旦受け入れ,放射線スクリーニングを行うとともに,全身状態をチェックした.移送に耐えられないと判断される患者はそのまま入院させた.数日間で175名の患者を受け入れ,125名は期間の長短はあるが,入院のうえ加療した.しかし,手術,集中治療を要する患者はなかった. 3 避難住民の医療支援 退避圏内の入院患者の移送がひと段落し,本院の水道も復旧した頃から,避難所における巡回診療を開始した.既に全国の医師会や日本赤十字社などから多くの医師が支援に入ってこられていたため,本院ではこれらの医師と連携を取りながら,不足しが2.原発事故と対応図① 手術室の養生.汚染患者の手術時に放射線汚染の拡大を防止するため,酢酸ビニールシートで床,壁の立ち上がり(50㎝程度)を覆い,シートの重ね合せ部分はガムテープで隙間なく止める.手術台とその近傍は汚染作業区域として防水性のRI用濾紙を敷く.図② 麻酔器の養生.麻酔器やモニターなども放射線汚染を防止するために酢酸ビニールシートやラップで被覆する.ノブなどがすべりやすく,操作に慣れる必要がある.

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