FUKUSHIMAいのちの最前線
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第4章患者救済に奔走した活動記録〈論文・研究発表〉FUKUSHIMA いのちの最前線371福島県耳鼻咽喉科會誌 第22号2011年(日耳鼻福島県地方部会・福島県耳鼻咽喉科医会)掲載日本耳鼻咽喉科学会福島県地方部会長 大森 孝一巻頭言 2011年3月11日の大震災にて、津波などにより多数の方がお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。2004年12月26日にインドネシアで起こった大地震と津波の映像をみて、自然の脅威と生命の大切さを心に刻んでおりましたが、今回の現実を目の当たりにして再び深い悲しみを感じるとともに、一瞬の判断が生死を分けることがあり、これらの情報を広く共有する必要があると感じています。 福島県地方部会の会員には地震や原発事故により大きな被害にあった方もいましたが、人的被害はありませんでした。4月10日には福島県地方部会の開催を予定しており、中止するかどうか考えましたが、3月24日に高速道路が再開通しましたので移動は可能と判断しました。会員同士が顔を見てお互いの無事を確認し、被害状況、診療体制、要望事項などを話して情報交換し、被災から立ち上がるためのきっかけにしようと思いました。プログラムは応募いただいていた一般演題を取りやめて、県内の病院からの被災状況の報告会となるように、シンポジウムを企画しました。次頁からの特集をご覧下さい。それぞれの病院が被災しても患者さんを必死で守っている姿を目の当たりにして、熱い思いがこみ上げてきました。東京医科歯科大学の喜多村健教授には、新幹線が東京から那須塩原までしか復旧しておらず、原発もどうなるかわからない時によく来て頂けたものと感謝しております。会員にとって大きな励みになりました。 大地震発生時には私は大学の教授室にいましたが、ただごとではないと直感しました。災害対応は初動が大切と思い、ただちに災害対策本部(災害医療対策部)を立ち上げて大学病院の被害確認と救急体制構築に奔走しました。詳細は後に書いていますのでご覧下さい。私の両親は阪神大震災で被災しており、震度7の地震では冷蔵庫が倒れテレビが飛んできたそうです。私は今回震度6の地震に遭遇しビルが折れそうな不気味な横揺れを体感しましたが、その瞬間その場にいてよかったなと、ふと感じていました。 震災から3週間は大学病院では水や食料品や薬品が底をつきそうになり、知人や友人を介して物資を分けていただきました。風評被害でトラックが福島県に入りたくない時期に持ってきていただきました。また日本耳鼻咽喉科学会、日本耳鼻咽喉科医会、国際耳鼻咽喉科学振興会やこれらの団体を通して数多くの方々から多大なご支援をいただきました。心より感謝申し上げます。 現在、旅館も観光地もゴルフ場も閑古鳥が鳴いています。福島市は第一原発から約60㎞離れており、放射線線量は低下傾向で原発は収束の方向を向いているようです。避難を勧められている地域以外では平穏に通常の生活をしています。現地に数日でも住んで現場を実際に見てみると事情がわかると思います。 復興への大きな一歩として、第22回日本頭頸部外科学会を平成24年1月26日、27日に予定通り開催することといたしました。質素に、でもしっかり勉強できるようなプログラムを組んでいきたいと考えています。全国から東北に来て頂くことが最大の支援です。よろしくお願いいたします。

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