FUKUSHIMAいのちの最前線
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第4章患者救済に奔走した活動記録〈論文・研究発表〉FUKUSHIMA いのちの最前線355災害医療における情報伝達のあり方を求め,精神科病棟の2階に患者たちを誘導した。再度の担送後,ふと国道6号線を見ると大渋滞であった。病院の屋上にあがると,海側約300mまで津波が迫っていた。本院には,外科の常勤医は筆者しかいない。救急搬送に備え内科医,婦人科医,非常勤の整形外科医,精神科医と,ナースが救急外来に集まり,私はトリアージを任された。地震直後の救急患者は,瓦礫による外傷が多かった。しかし時間の経過とともに,津波による被災者が増加した。救急隊は,遠くに津波に巻き込まれた人が見えるが救助できない辛さ,もどかしさを語っていた。搬送患者の中には,トリアージの黒とせざるを得ない方も多くいた。午後7時,地震のためいったんは中止になった帝王切開が終了した。震災の中で生まれた命である。 そんな中,原発から放射能が漏れているらしいという噂を聞いた。 深夜,新潟大学病院のDMATが到着し勇気づけられた。重症患者の中から海水の誤嚥性肺炎,骨盤骨折,腹膜炎の3人を搬送していただいた。当院は原発より3.3㎞に位置する。3月11日午後8時50分の時点で,原発から半径2㎞圏内に,午後9時23分には半径3㎞圏内に,それぞれ避難指示が出たが,われわれには伝わらなかった。 <3月12日> 午前7時すぎのテレビで,「内閣総理大臣が,半径10㎞圏内の住民の避難を指示した」というニュースが流れた。約20人の自衛隊員が,続いてタイベックス*を着用した警察官たちが到着し,避難業務にあたった。途中,屋内避難を命じられ搬送は3時間近く中断した。後に原発でのベントのためと知った。 当初,独歩可能な患者はバスにより搬送をしたが,担送患者も多く,自衛隊の大型双発ヘリによる搬送も併用した。原発の横を車で避難中,ドーンと花火のような音がした。後に,これが福島第一原発1号機の水素爆発であったことを知る。国道288号線を退去中,常磐線の高架橋が崩落しており,その下を通過した。 <3月13日> 病院より70㎞離れた二本松市の福島県男女共生センターに向け,当院の多くの避難者の搬送が開始された。放射能サーベイランスにて除染の必要性がないことも確認された。その後,患者の一部が埼玉県さいたま市のさいたまスーパーアリーナに避難となり,筆者もさいたま市に向かうことになる。�(藤田正太郎) く2011年3月11日・県立大野病院> テレビやラジオの情報によりマグニチュード8.8の大地震であり,津波で多数の行方不明者が出ている事実を知る。家が流され,家族と連絡の取れないスタッフも多く,医療人でありながら被災者である事実を強く意識した。翌朝6時,原発が危ないと避難指示が出た。大型バスと救急車を駆使して20㎞内陸の川内村の診療所に患者・スタッフとともに避難した。その直後に原発爆発のニュースが入り,20㎞圏内に避難指示が拡大された。再度の移動が必要となり,見えないものに対する恐怖にスタッフは混乱した。後日発表されたSPEEDIで,川内村の線量がきわめて高値であったことが示される。この情報を事前に知ることが可能であったなら,避難経路も異なるものとなったはずである。町役場の衛星電話から本学の当教室に連絡が取れ,後方病院の受け入れを確保できた。防災ヘリ,救急車,マイクロバスのピストン輸送で,すべての患者の搬送を終了した後,われわれも被災者となった。家族のいる避難所に向かう者,家族を捜して避難所を巡る者もいた。現在筆者は,病院を失い,最後の患者の搬送が決まるまで医療人であり続けた仲間たちへの思いを胸に120㎞離れた病院で外科医を続けている。�(小船戸康英) 将来にわたり帰還困難地域に指定され,再建不可能な病院から,患者を中心に行動し使命を全うした若い教室員の報告を記載した。主たる情報源がTVなどのマスメディアであり,正確な情報把握がなされない中で,不安・恐怖だけが助長されてきた。その大混乱の中で,医療人として持ち場を離れず責務を全うした医療者たちが大勢いたことは,せめてもの救いである。患者を後方支援病院に搬送し終えた医師たちが無事に本学に一時的ながら帰還し,放射能サーベイランスにて異常ないことが確認され詳細な報告を受けた時の安堵感は鮮明に残っている。忘れてならないのは外科医の際立った危機回避能力である。極限の状況の中で,迅速・適切な判断・行動と,それらを支えた知識・技術・人格形成などが,これからの外科医の育成の中で重要なポイントとなる。おわりに*タイベックス:ポリエチレン繊維の不織布で放射線管理区域で着用する作業服

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