FUKUSHIMAいのちの最前線
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320福原 まず、2011年3月11日に発生した東日本大震災へのお見舞いをあらためて述べさせていただきます。言葉にならない、たいへんな出来事でした。 福島県には、地震と津波に加えて、原子力発電所の事故が降りかかりました。ただでさえ未曾有の災害であるところに原発事故とはあまりに大きすぎる試練。その後の報道等で被災地に何が起こっていたのかが徐々に国民の目と耳に届きつつありますが、まだわからないことばかりです。菊地先生には、突然発生した事態と混乱の只中で県民の命と健康を守るためにどのように陣頭指揮を執られ、県民の医療を支えようとされたのか──おうかがいしたいことが山ほどあります。菊地 最初にぜひ申し上げたいのは震災後、特に原子力発電所に問題があると判明し、水素爆発が起こり、放射能漏れがわかったあとも、福島県立医科大学の医療従事者は全員が病院に踏みとどまったことです。彼らの自己犠牲をもいとわない行動は、正直、私の認識さえ超えていました。大きな驚きとともに、言いようのない誇りを感じています。福原 県唯一の医科大学が、崩壊あるいは、撤退すれば、県の医療全体が崩壊するでしょう。地震と津波だけでも被害が甚大であったのに、想像もつかない放射能の危機まで迫る中、皆さん本当に貴い振る舞いをなされた。菊地 おっしゃるとおり、もっとも深刻な問題は原発事故、放射能でした。地震と津波も甚大な被害をもたらしましたが、福島県にはやや遅れてさらに巨大な災難が去来し、恐怖と混乱DtoD 医療のための発信を共に June2012 №1創刊特別対談掲載公立大学法人福島県立医科大学理事長兼学長 菊地 臣一京都大学大学院医学研究科医療疫学分野教授 米国内科専門医(FACP) 福原 俊一危機対応の要諦:備えとリーダーシップ原発事故後も全員が病院に踏みとどまった 『D to D』創刊にあたり福島県で震災発生直後からここまで医療を支えてきた福島県立医科大学理事長兼学長の菊地臣一氏を「創刊特別対談」のためにお迎えしました。聞き手は、震災発生から、被災地にたびたび足を運んでは、現地にとどまって医療の砦を守る医師たちを励ますために、「臨床研究てらこ屋」などの活動に積極的にかかわってきた京都大学大学院医学研究科医療疫学分野教授の福原俊一氏。臨場感あふれる震災直後の菊地先生のご活躍、病院の対応は読む者を圧倒します。*注:この記事では、被災者や大学関係者が漠然と受け止めた恐怖=「放射能」、担当分野=「放射線」としています菊地臣一公立大学法人福島県立医科大学理事長兼学長きくち・しんいち●1971年福島県立医科大学卒業・同大学附属病院整形外科入局、1977年カナダ・トロント大学ウェールズリィ病院留学、1980年日赤医療センター整形外科副部長、1986年福島県立田島病院院長、1990年同大学整形外科教授、2002年同大学医学部附属病院副院長、2004年同大学医学部長、2006年公立大学法人同大学副理事長兼附属病院長、2007年日本脊椎脊髄病学会理事長、2008年現職

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