FUKUSHIMAいのちの最前線
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286東日本大震災:被災地の現場から作ったのですが、結果として非常に役に立った。独立行政法人化されても、やはり県立の医大。これまで県とは表裏一体で、私や執行部は知事や副知事といつでも電話で直接話し、非常に緊密な意思疎通を図ってきました。これが結果として、原発事故への対応に役に立った。──“福島モデル”とおっしゃいましたが、今回のような大災害の場合に何を優先的にやるべきか、それを考え、実施していくことを総合的に指しているのでしょうか。 そうです。今回の未曾有の惨事では、政府も含めて、指揮命令系統が大混乱しました。ですから、縦割りの行政の壁を越え、関係機関が連携して、対応していくモデルを作る必要があります。 そのほか、今回の教訓というか、非常に感じたことがあります。私は医療という面からしかわかりませんが、病院は大惨事が起きた時の“最後の砦”です。しかし、“災害に強い病院”を目指していても、実はもろいものだと。例えば、本学でも3月11日の地震直後から断水しました。文部科学省の協力で、「今日、水が来なかったら、大学病院も閉鎖」という時点で、かろうじて助かりました。 水は、「1床、1トン必要」と言います。700床あれば、1日当たり700トン必要です。自衛隊などの協力で、断水が改善するまで、約1週間つないでもらいましたが、700トンも毎日持ってきてもらうのは難しい。管理棟や研究棟のトイレは使用禁止にして、仮設トイレにしました。そのほか、様々な節水をしました。──改めて3月11日の地震、そして原発事故直後の話をお伺いします。 本学の建物などに被害はなく、電気も使える状態でしたが、一番大変だったのは、先ほども言いましたが、原発事故周辺地域の医療機関からの患者さんの退避です。まず本学ですべて引き受けて、ここから他の施設に移送する体制にしたわけです。これは結果的に非常にうまくいきました。 医療機関だけで約500床あり、そのほか介護施設がありました。例えば、この4月に統合予定だった、福島県立大野病院と双葉厚生病院は、津波の被害を受けた患者さんも受け入れていたところに、避難指示が出た。病院職員も含め、本当に皆、緊急避難されてきました。職員は白衣姿のままです。最後残られた方は、3月12日の第一原発の1号機の水素爆発も見ていると聞いています。 大学からも現地に応援を出しました。本学の敷地は、一時は、自衛隊のヘリコプターや救急車で埋まっていました。体育館や外来ロビーに仮設ベッドを並べて、大学病院で診るべき患者、あるいは他の施設に移送可能な患者などとトリアージしました。さらには断水がありましたから、透析患者さんは、東京をはじめ水が使える地域にヘリコプターなどで運びました。──それはどなたの判断で行い、移送患者は何人くらいに上ったのでしょうか。 3月12日に県の災害対策本部から受け入れ要請があり、すぐに対応しなければならなかったわけです。 本学は、震災直後から、外来診療は重症患者に特化するなど、診療体制を変更しています。最初の1週間、災害医療として対応した患者は約1000人、退避患者の対応は約1300人に上りました。そのほか、原発事故作業者の高度被曝者の除染や被災者放射線スクリーニングも実施しています。段階的に戻し、3月28日は通常の診療体制に戻り、4月4日には手術室もフル稼働させています。 大学と県は、先ほども言いましたが、意思疎通が良好だったので、何の問題もありませんでした。仮に国立大学と県という関係であれば、パイプがあまりなく、どうなっていたでしょうか。 日本には、自己完結型の組織は、自衛隊を除いてありませんから、自衛隊と一緒になってやらないと我々は動けません。自衛隊は当然県に入ります。本学では、福島県の対策本部に、医学部長を送っていました。県と一体となってやるためには、こちらから本部に責任のある人材を送らないと、うまくいきません。何かあれば、私が対策本部と直接話す。その上、文科省から絶えず毎日、電話をもらい、職員も2人送っていただき、本学の会議にはすべて出席震災直後は、全職員を講堂に集め、朝晩に2回全体会議を開催したという。「Face to Face のコミュニケーションが重要」(菊地臣一氏)。

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