FUKUSHIMAいのちの最前線
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274一糸乱れず、1週間持ちこたえた──あの大震災が起こった時、理事長は、どこで何をされていたのでしょうか。菊地 私はあの時、東京の文科省でプレゼンテーション直後でした。その時から地震と津波と、そして原発事故との戦いが始まりました。東京で代表世話人として開催していた国際シンポジウムの海外からのゲストを何とか翌日までに帰国させ、急いで福島に戻るとともに、ただちに県の対策本部へ医療チームを送り込みました。また、文科省からも職員2人が派遣されて来て、医大から国への情報発信を開始しました。県立医大病院は次々に運ばれてくる負傷者、避難者、そして国、県との情報の中継基地になりました。──震災後のすべての対応は、菊地理事長の判断で動いたのですか。菊地 医大にも単一災害に対するマニュアルしかありませんでした。そもそも原発事故は我々の想定をはるかに超えたものでしたし、国や福島県の原子力事故に対応する施設は全く機能せず、被災地の医療施設も大きな被害を受けましたから最後はすべて独断で判断することになりました。──さぞかし、難しい判断が続いたのでしょうね。菊地 病院側にもこれまで「災害に強い病院づくり」「薬品・食料の備蓄」などという発想がなかったのが現状です。教職員らの食料の確保だけでも困難を極めました。われわれ支援体制側への支援がないというのが問題のひとつでしたね。──震災直後から医大は“戦場”のような状況が続いたのですね。菊地 まさに戦場と化していました。その中で特筆すべき点は、“患者の分類”ができた事でしょう。あふれる患者さんをどうさばいていいかわからないという状態にありなが

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