FUKUSHIMAいのちの最前線
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270地元医大の使命かもしれないと思っていた。「原子炉が爆発したら全員集合」と、同様に帰宅したスタッフと約束していた。5日ぶりに布団に横たわると、夜の闇が無限に続くような気持ちになった。 翌日から再び不眠不休の診療が始まった。夜になると病院のあちらこちらでスタッフのすすり泣きや、つぶやきが聞こえた。「なぜこんな目に遭うんだ」「孤立した病院が役に立つのか」。自身も感情が高ぶり軽度の失禁が続いていた。 混乱は、放射線医療の第一人者で、後に県立医大副学長に就任する長崎大教授の山下俊一(59)が18日に訪れるまで続いた。* 受け入れた被曝患者は当初の1か月で12人。自衛隊員ら公務の作業者向けに新設した放射線健康管理外来には、これまで約500人が訪れた。 長谷川はいま、当時のことを文書に残す作業を進めている。「混乱の中で自分たちがどう対応したかを包み隠さず示すことが、教訓になるはずです」(敬称略) 昨年3月17日夜、長崎大教授の山下俊一(59)は、タクシーで大学に向かっていた。地元ラジオ局の番組で原発事故による放射線の影響について話した後だった。途中、携帯電話が鳴った、面識のない福島県立医大理事長の菊地臣一(65)からだった。 「みんな浮足だっているんです。すぐに福島へ来てもらえませんか」 震災の被災者や原発事故の被ひ曝ばく者の治療に追われていた県立医大のスタッフは、放射線による自分や家族の健康被害に不安を募らせていた。 県立医大に応援に入っていた長崎大准教授の大おお津つ留る晶あきら(55)からも電話があった。「医療崩壊の危機です。助けてください」 山下は放射線医療の第一人者で、情報を共有し危機に対応する「リスクコミュニケーション」の権威でもある。2人は、難局を乗り切るには山下の力が必要だと感じていた。* 山下は翌日、県立医大を訪れた。同大助教の長谷川有史(44)らが「お待ちしてました」と抱きつき、そのまま泣き崩れた。「ここまで追いつめられているのか」 夜に講堂で始まった緊急集会は、医師、看護師や職員ら約250人で埋まった。通路にも座り込み、立ち見も二重三重。不安げな表情を浮かべていた。 山下は、現在の学内の放射線量なら健康被害の心配はないことから説明を始めた。「水道水は大丈夫?」「子どもへの影響は?」……。相次ぐ質問に2時間にわたって答えると、雰囲気は和らいでいった。 「我々、医療従事者は覚悟を決めて、県民のために尽くしましょう」。山下が訴えると、一斉にうなずく姿が見えた。 「この瞬間に医大が一丸となった」。会場にいて、後に県立医大教授になる大津留は思った。 その後、県立医大の多くの医師や看護師らが、原発から20〜30㌔圏内の住民を巡回診療したり、避難所で診察したりと奮闘を始める。* 山下は2日後から住民向けの講演を始めた。「正しく怖がる」を信条に「この地域の線量なら健康に影響はないはずです」と訴えた。しかし、東電や行政への不満や怒りが壇上の山下に向けられた。「原発事故が収束しなかったらどうなるんだ」「隠している情報を公開しろ」。インターネット上でも罵ば詈り雑言があびせられた。大学にもクレームの電話が相次いだ。「県民のためにやっているつもりなのに」。当惑した。 県は昨年5月、約200万人の全県民を対象に健康管理調査の実施を決めた。山下は7月に県立医大副学長に就任し、調査担当のトップになった。しかし、当時の行動記録を記入する問診票の回収率は、現在も約2割にとどまっている。「子どもをモルモットにするな」と拒む人も少なくない。回収率の低さを長崎から援軍 一丸に2012年6月23日(土)掲載地元経済団体との意見交換会で放射線の影響について語る福島県立医大の山下副学長(中央)(11日、福島市で)=菅野靖撮影

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