FUKUSHIMAいのちの最前線
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268朝日新聞〈2012年6月22日〉掲載プロメテウスの罠:見ないと分からない 広野町は3月下旬、映画のセットのような町になっていた。駅前の通りを歩いても、人影すらない。「何もかもが止まっている印象でした」 事務長の高野己保(みお)は振り返る。 病院は落ち着きを取り戻した。 このころ、己保や統括看護師の松本とし子ら残った看護師が傷ついていたことがある。 避難でやりとりした行政関係者やマスコミが、病院に残った患者を死期が迫ったときの患者を指す「看取(みと)りの患者」と表現していたことだ。「私たちは医療を提供しているんです。看取りのときを、待っているのではありません」 己保がそのことをいくら説明しても、行政関係者には理解されなかった。もともと内科病棟の患者の平均在院日数は400日前後。それでも、無理な搬送をすると、命の危険がある患者が多かったのだ。 そんな時期、福島県立医大准教授の福島俊彦(48)は、高野病院を訪れることにした。 福島は14日から県災害対策本部に詰め、高野病院などの広域搬送の調整をしていた。一段落したとき、現地に行ってみたくなった。福島は外科医で、高野病院とはこれまで縁がなかった。 28日、連絡なしで病院を訪ねた。病院の建物に大きな被害はなかった。医薬品会社の車も来ていた。「被災して壊れた病院だと想像していました。行ってみたら、水が出ないことを除いて普通だった。びっくりしました」 院長の高野英男が院内を案内した。患者一人ひとりの状態と残した理由を説明する。医師の福島には、動かすのは難しい患者であることがよく理解できた。 その後、厚生労働省の大臣官房企画官、迫井正深(さこい・まさみ)がやってきた。 厚労省災害対策本部のメンバーとして4月3日、福島県入りした。県や医療関係者との調整が目的だが、高野病院を訪ねようと考えていた。「病院で何か起きているか、電話では分からない。原発が次々爆発する中で、何か起きれば対応しなくてはいけないですから」 迫井は4月5日に広野町に入った。迫井も元外科医で、病院のどこを見ればいいかは分かっていた。 院内の管理は行き届いていた。職員も落ち着いていた。床はきれいで、衛生状態に問題はなかった。「やっぱり百聞はゼロ見、見てみないと分からない」(岩崎賢一)病院、奮戦す:13

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