FUKUSHIMAいのちの最前線
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238福島医大被ばく医療班の取り組みたし,事業所とのコミュニケーションもありませんでした。JCOの臨海事故等で2001年に除染棟といわれる箱物ができました。そのあと2002年にマニュアルを作りましたが,現場とのパイプはございませんでした。その中で起きた原発事故の対応ですから,もうどうしていいのかよくわからなかったという状態です(図3)。 そこで3月15日に緊急被ばく医療の特別チーム,長崎・広島合同緊急被ばく医療支援チーム(REMAT)が来てくださいまして,これは助かる、もう大丈夫だと思いました。原発事故の現状説明をここで初めて受けました。 そして臨界による高線量被ばく傷病者が出て,ヘリで大量に福島医大病院へ運ぶだろうということで,体育館に患者さんを一時収容し,遺体も出るだろうから1階のプールに安置しますということになっています。そして医療に関しては補液程度が限界かもしれない戦場のような想定で,大学病院ももしかしたら閉鎖されるかもしれない,その上われわれも隔離の可能性があるということを,震災後3日目か4日目になってそうした実情を教えていただいて,かなり肉体的・精神的に限界に来たのを覚えております(図4)。 このときのわれわれの精神状態は,いってみれば図5に示すがん告知後と類似のような状態でした。まず最初に話をうかがって,やはりそうだったかとボロボロ涙を流す方もいまして,絶望感を経験し,そのあと苦悩や不安の日々が3日間続いたといいますか,毎晩チームの人たちが1人ずつ泣き崩れて,最終的には全員が泣き崩れる状態でした。 そして不思議と人間,泣いたあとにはさっぱりしたもので,4日目から1人ずつ再生をしていきましなが,当時のことを思い返すと,われわれに熟慮の猶予はなく,とにかく目の前で起こる災害に対してなにかアクションを起こさなければならない,それがわれわれの実情でした。 このときにわれわれを救ってくださったのが,災害アドバイザーの先生方です。まさに自身の生命の危機においてクライシスコミュニケーションを受けました(図6)。今となってはどんな話をされたの図2 被ばく医療は突然に始まった図4 専門的支援と被ばく医療体制再構築図3 発災前の福島医大緊急被ばく医療体制図5 がん告知後類似の精神症状を体験

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