FUKUSHIMAいのちの最前線
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第3章放射能との闘いFUKUSHIMA いのちの最前線237 まずは講演に先立ちまして,被災された皆さまにお見舞い申し上げます。それからこの会場にもたくさんいらっしゃいますが,福島県のために支援いただいた先生方,この場を借りて厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。 私はこの原発災害において,福島医大病院がどういうことをしたかに特化した話を今日はさせていただきたいと思います。いみじくも衣笠先生,そして富永先生がおっしゃったように,今回の震災は複合災害でございました。私も震災後よりERに2日間住んでおりましたが,地震があって建物が壊れて,津波が来て低体温,誤嚥性肺炎,多発外傷となった患者さんが,とにかく24時間の間どんどんどんどん運ばれてまいりました。 福島医大病院はDMATの参集拠点病院となりまして,35チーム180人のメディカルスタッフが入り,3日間で168人の患者数があったわけですが,トリアージタッグで赤の30人はだいたい発生後24時間以内でした。 また避難地域から病院が避難しておりましたので,その避難患者約80人を受け入れるという仕事が入り,その傷病者を域外に搬送するという仕事もありました。一方,水の供給が断たれており,通常の医療すらままならないというような状況の中で,原発事故が現実に起きたということをわれわれは知りました(図1)。 日を追って,3㎞,10㎞,20㎞と避難地域が拡大していきます。そして今度は3号炉が爆発したらしいということなど,こういう情報はすべてテレビから得まして,まったく通知などが来たことはございません。爆発,避難指示,そして3月14日に最初の患者が来て,次の日に3人来て,どうも何か屋内退避が出たようだ,2号と4号炉が爆発したらしいぞということで,このあと気づいたときには30㎞圏内が飛行禁止になり,ヘリ運航会社が避難し,自衛隊が飛行を自粛するという事態になりました。これがわれわれの3月15日までの実情でした。 私はもともと一般的な救急医で被ばく医療などはしたこともございませんでした。たまたまERにおりまして,3号炉で怪我をした人が来るらしいから診てくれといわれ,イエスもノーもなく,「わかりました」と院内マニュアルを見ながら,タイベックスーツを初めて着たぐらいの余裕のない状況で対応をしました。 このときに集まった放射線科医と救急救命センターの医者が,現在の救急被ばく医療班の原型になっています。14日には自衛隊員の方が左腕神経叢引き抜き損傷で搬送され,15日には足の挫創でしたが,汚染情報のわからない傷病者が3人,当院に搬送されてきました(図2)。 発災前の福島医大病院緊急被ばく医療体制についてご説明しますと,一言でいえば備えは不十分でしフォールアウトした時代があった。食品規制すら行われなかった時代,1960年代に人々はかくも不幸せだったのだろうか? われわれは福島近辺に新たにフォールアウトが積み重なったと捉えており,この事態への対応が必要だと考えている。福島に暮らすメリットと放射線によるデメリットを,正しく比較し判断行動するための情報提供を行うこともわれわれの責務である。6.まとめ 「地震」「津波」「原子力」に加え「情報」災害により「安全」ばかりか「安心」までが揺らいでいる。「原発作業員」「危機介入者」「原発周辺地域の住民」の皆様のニーズに応え,安心できる救急医療や健康管理を,そして福島に暮らすメリットをも提供したい。最後に,長崎大学をはじめご支援を賜った皆様にはこの場をお借りして御礼申し上げたい。複合災害による病院機能低下緊急被ばく医療班の立ち上げ図1 地震,津波,原発事故の複合災害

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