FUKUSHIMAいのちの最前線
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214東日本大震災における放射線汚染と避難命令への対応協力した。震災直後は多数の外来救急患者を想定していた。しかし3日目(震災後58時間)までの救急患者は予想外に少なく,トリアージで緑ラベル93名,黄44名,赤30名,黒1名の計168名であった。後日,地震による被害よりも津波による被害が大きく,津波被害では「生か死か」の状況であり,生存者はほとんど外傷などを負わなかったためと判明した(図3)。このほか,市内でいくつかの病院が被害を受け診療不能に陥り,数十名の人工呼吸器装着患者が大学病院に緊急搬送された。また,断水のため,本院を含めた福島市内の多くの病院で人工透析が不能となり,透析可能施設の検索と患者輸送が必要となった。これには透析学会などのネットワークに大きな力を発揮していただき,かなりの数の患者が関東方面へ救急車やヘリで搬送され窮地を脱した。 3月12日には原発事故発生が明らかとなり,その後,2回の水素爆発が発生した。前述のように,急速に避難地域が拡大したため,原発近くの大熊町にあったオフサイトセンターはまったく機能せず,すぐに福島県庁内に移動した。緊急被ばく医療支援チーム(radiation emergency medical assistance team:REMAT)も出動,福島県立医大にもその後長く滞在して被曝医療を支えてくれた。この時点では,チェルノブイリ型の炉心爆発の可能性も十分あったため,炉心爆発時には「コード・レッド」を発令し,学生・入院患者・職員の安全を確保することとした。①オフサイトセンターからの連絡,②TV・ネットなどでの報道,③環境モニタリング>100μSv/h,の場合は学内・院内放送や電子カルテで「コード・レッド」を発令する。この際は,すべての窓と入口をすぐに閉鎖し,換気を停止,不要な外出を禁止し,外出時はN95マスク・防護衣を着用するなどの手順を整えた(幸い炉心爆発は起きず「コード・レッド」が発令されることはなかった)。 一方,緊急避難地域が指定されたため,指定地域内の自力避難不能の入院患者,ならびに介護施設入所者の域外搬送が必要となった。これは主に自衛隊・消防・各自治体などとの共同作業で行われたが,相双地区(相馬市~広野町にかけての福島県浜通り)では約1,300名の搬送が必要となり,本院はその中継拠点としての役割を担った。トリアージのため外来待合室ならびに看護学部実習室にベッドを用意,175名の診察を行い,移動可能者は引き続き退避,移動不可能者は一時入院とした。一時入院者は125名を数えた。これらの診療は,看護学部教官などの援助も受けながら,内科全部門と地域・家庭医療部の医師などが担当した。 避難地域からの搬送が一段落した後は,活動の主体を徐々に避難民医療へと移行していった。各避難所でのプライマリー・ケアはDMATに加え,地元医師会・日本医師会災害医療チーム(Japan medi-cal assistance team:JMAT),県内地域中核病院からの応援医師などが担当して下さった。それ以外に,全国各地からボランティアとして多くの医師・看護師などが集まり,上記の活動を支援していただいた。このため,福島県立医大としては,その活動をより組織的にし,災害医療全体のレベルアップを図るため,広域医療緊急支援として以下の3つの活動を行うこととし,大学全体で取り組む体制を整備した(図4)。1 高度医療緊急支援 阪神大震災の経験から,各避難所ではより高度な医療ニーズも発生することが知られている。このた図3 福島県内の被災状況(2011.3.11)(福島市内)(南相馬市)

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