FUKUSHIMAいのちの最前線
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198放射線リスクの考え方−科学と哲学の狭間で−という実現不可能なものを求めた先にあるのは、「幸福感」ではなく「不安感」「絶望感」「虚無感」だ。 我々はまた、日本人の美徳である「相手の身になって考える姿勢」「発言や行動が与える影響に配慮する姿勢」「自ら学び考える姿勢」を失った。「燃やせない」「打ち上げられない」「売れない」「うつす」「載せられない」などの社会性のない無責任な発言や行動をいまだに目の当たりにする。 なぜ放射線にだけゼロリスクが求められるのか。以下の理由が考えられる。○リスクが突然与えられた 私の住むフクシマで、原子力災害は降って湧いたような話だった。通常の「徐々に」ないしは「予想された」リスクではなかったために、その妥当性を天秤にかける処理がいまだにできていない。○強制され、回避困難なリスク 通常のリスクは、選択・回避が可能なことが多い。一方、今回の放射線リスクは強制され回避に努力を要する。○情報氾濫 初期の専門家の見解に若干の相違がみられたために、リスクを天秤にかけた評価が困難だった。また過去のフォールアウトの事実が広く周知されていなかった。○関係者全員が被災者 一言でいえばこれに尽きる。今回の震災では皆が損害を被った。 当初は科学的事実が国民の不安を解消してくれると考えていた。しかし、どうやら現状は科学的事実だけでは解決できない事態のようだ。わずかであってもリスクが存在すれば不安の原因となってしまう。人によっては、とても苦しくつらい感覚を強いられるだろう。 科学はゼロリスクを証明してはくれない。科学は「リスクが絶対にないとは言えないよ」としか答えてくれない。科学だけでは国民の不安を解消して、「幸福な生活」「日本人の美徳」を回復することは困難かもしれない。 不安感の原因の一つが「ゼロリスクが実現しないこと」だと仮定すれば、どこかで「放射線ゼロリスクの追求」を止めないと国民の不安を解消することはできない。放射線リスクに対する考え方を改めないと、風評被害や差別は続き、「幸福な生活」「日本人の美徳」回復の妨げになる。 国民は今一度根源的な問いに立ち返る必要があるのではないか?「生きる目的は何か」「何を重要視するのか」「子供たちに何を残したいのか」。それは「子孫に責任感や倫理観を伝えつつ健康や安全な環境を残す」ことなのか、「自分だけが幸せになる」ことなのか。 こうした問いかけの中で、叶わぬ「ゼロリスクの追求」を止めて、リスクと共に「幸福な生活」を清く生きることに目標転換できた時に、国民の不安が少しは解消されるのではないか? 救急医には最も似つかわしくない哲学的な話になったが、今はただ、「どうすれば皆が幸せに暮らせるのか」をフクシマに暮らす一医師として真剣に考えている。 「国民(フクシマ住民)の放射線リスクに対する考え方」を論ずることは、一医師には荷が重いが避けて通れない問題だ。我々だけでは解決できないと考え、広く意見を伺いたく問うた。なぜゼロリスクが求められるのかどうすれば皆が幸せに暮らせるのか科学はゼロリスクを証明しない

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