FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線157 大学に向かう時、車は前照灯を点けるようになりました。“雲の陰の白い太陽”、冬の到来です。 快晴が続き、夜よ半わに強い風が吹くと楽しみの一つが“早朝の朝焼け”です。太陽が阿武隈山系の稜線の下に隠れている時間、出し始めた時、そして稜線を離れた時刻、雲の有無、形、位置により、様々な輝きで雲が朱から茜色に染まり、余光が吾妻の嶺々を頂上から麓へと染め上げていきます。よべ荒れし月夜の風のあとなれや岸辺濁りて朝焼けにけり(若山牧水) 歌人の観察眼に驚かされます。時の移ろいと自然の変化を31文字で掬すくい取ってしまいます。室内は、梅もどきと菊、そしてくじゃく草を設しつらえて過ぎ去っていく秋を慈しんでいます。 150号という一里塚からのもう一たびの旅立ち、どこまで届くか、その時、福島がどれだけ立ち直っているか、課せられた責務に、一瞬、海外で修業し始める時の不安と覚悟を思い出してしまいます。 本学は今、スタッフが休日返上で小児や学童の甲状腺検査を始めました。震災後、何事も無かったように黙々と働いている教職員、被災しながら原発事故現場に踏み留まり働いている人々、只、“感謝”の一言です。 原発事故と対たい峙じしている今、年を取っていることは悪いことばかりではありません。何故なら、内容の適否は別にして、非難に耐えなければならない時間が短くて済みます。また、心の余分なものが削ぎ落とされ、以前よりは周りが見えるようになっています。年寄りにだけしか出来ないことをすれば良いと割り切っての毎日です。 先日、熊本へ足を運びました。霊れい巌がん洞どうに行くことができました。宮本武蔵は、あの年齢で城下からここまで歩いたと聞くと、昔の人の健脚振りは知っていましたが、只只驚きです。霊巌洞、ゆかりの品々を展示している島田美術館での英語表記、海外の人々の「五輪書」への関心の高さを再認識させられました。印象的だったのは、周囲の蜜み柑かん畑でした。起伏の激しい斜面にたわわに実った蜜柑の橙色と緑の葉の対照は、点描主義(新印象派)の絵をみるようでした。 熊本城の石垣を再見できました。加藤清正が作ったといいますが、実際の工事は、穴あのうしゅう太衆のような石工集団です。神田上水を建設した玉川兄弟と企画・立案の保科正之との関係と同じように。穴太衆については司馬遼太郎が「街道をゆく」でも紹介しています。 石工集団といえば、保科正之が育てられた「高たか遠とうの石工」も有名です。近江、坂本の穴太衆と関係があるのかどうか分かりませんが、貧しさゆえの技術の習得と出稼ぎの手段であったであろうことは容易に想像できます。事実、本学から車で5〜10分程の旧奥州街道沿いに、高遠の石工が作ったと彫られた石の鳥居をみることができます。 今週の花材は、執務室、秘書室ともに冬に凜とした美しさを表現しています。今週の花vol.151 朝焼け2011年12月2日■黒文字〔クロモジ〕クスノキ科/《名前の由来》樹皮の黒い斑点を文字に見立てて/春に黄緑色の可憐な花が咲く。実は5㎜ほどの球果で、秋に黒く熟す。樹皮や枝に独特の香りがある。材は和菓子などに用いられる高級爪楊枝になる。■グロリオサ(ニューレッド)ユリ科/球根植物/原産:アフリカ・熱帯アジア/《名前の由来》ラテン語で「栄光」や「見事な」を表す“グラリオラス”から/メラメラと燃える炎のような花姿。半蔓性植物で、他に絡まりながら成長するため、葉先が巻きヒゲになる。

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