FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線141かしまHOThot通信(かしま病院広報委員会)掲載家庭医が見た東日本大震災①〜⑩福島県立医科大学医学部 地域・家庭医療学講座 助教 石井 敦ようこそ家庭医療へ!~いわきに生きる家庭医育成への挑戦~かしま病院では、日本プライマリ・ケア連合学会認定、家庭医療学専門医コースおよび福島医大が提案するホームステイ型医学教育研修プログラム協力病院として2008年度から家庭医を志す研修医・地域医療実習を行う医学生の受け入れを開始しています。このコラムを担当する医師の石井敦は福島県立医科大学医学部地域・家庭医療学講座の教官として、かしま病院をはじめ県内各地の研修協力病院に赴き研修医・医学生の指導を行っています。 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災。この時から、私たちは大きな試練を与えられました。既存の常識やマニュアルが全く機能しない惨状が、目の前の現実として展開し、そして自らも被災者。電話やメールなどの連絡網が断絶し、家族や仲間の安否すら確認できない中、福島県内各地の研修協力医療機関(おもに診療所や、かしま病院を含む中・小規模病院)で診療に従事していた福島県立医大地域・家庭医療学講座の後期研修医・指導医たちは、被災した瞬間から、それぞれの持ち場で自ら考え、自ら行動していました。特に津波の被害が甚大だったいわき市を含む沿岸部では、幸い当講座スタッフの中で直接津波の被害を受けた者はいませんでしたが、激しい余震が頻繁に起こる中、物が散乱し雑然とした急患室を取り急ぎ片づけ、近隣の医療機関の状況もわからず孤立無援のまま、津波に襲われた方々を次々に受け入れ、ひたすら救急のトリアージ(治療の優先度決定)と初期治療にあたりました。ライフラインの復旧が遅れ、充分な検査や処置ができない状況下では、頼れるのは自分の丸裸の診療能力だけでした。 直接的な被害が少なかった地域でも、機能を失った病院からの尋常でない数の患者さんを受け入れるため、玄関ロビーにビニールシートを敷いてスペースを確保するなど奔走していました。特に電子カルテシステムがダウンした病院からの受け入れは困難を極め、お薬手帳などを頼りに治療内容が把握できればまだよいほうで、病名はおろか氏名すら定かでないケースすらありました。まして、放射線被曝の疑いのある患者さんへの対応など、かつて経験したことのない診療を、わずかな情報を必死にかき集めながら行ったのでした。* * * 東日本大震災は、日頃私たちを見守り育ててくれている地域の皆さんのために働くことができるという、喜びに似た感覚を私にもたらしていました。「この惨状に対し“喜び”とは不謹慎だ!」とお叱りを受けるかもしれません。しかし、事態の深刻さが明らかになるにつれ、なおさら「今の自分にできることならば、何でも喜んで捧げたい。たとえそれが過酷を極めても……」そう思っていたのは事実です。まして「福島県いわき市にいること」を悔やんだりする感情は全く湧きませんでした。それは何故なのか? 震災から6週間余り経った2011年4月23日。福島医大で2か月ぶりに「FaMReF」(ファムレフ)が開催されました。「FaMReF」とは「Family Medi-cine Resident Forum」の略称で、県内各地の家庭医療後期研修医らが毎月1回一堂に会して学ぶ月例の勉強会です。 当講座開設以来5年間毎月欠かすことなく開催されてきた恒例のイベントでしたが、3月に予定され、震災の影響で史上初の中止となりました。 危機を乗り越えた仲間たちとの2か月ぶりの再会に涙し、黙とうで始まった「FaMReF」は、「震災を語る!」をメインテーマに進行していきました。そこから見えてきたものは……。 同じ福島県内で同じ時を過ごしながらも、各地で全く実情は異なっていました。しかしながら、個々人がそれぞれの持ち場で、現地のスタッフらと助け合い行動してきたこと一つひとつが、県内全域にわたる大規模な災害医療支援の歯車となって機能していたことを、振り返ることができました。

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