FUKUSHIMAいのちの最前線
139/608

第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線133いきました。③高齢者に簡単にできる運動を紹介 体の不自由な高齢者は、トイレ近くのスペースに集められていました。冷たい床の上で毛布に包まる人、パイプ椅子を何個かつなげてその上で寝る人など様々でしたが、どの人も暗い表情をしたまま、トイレに行く以外は体を動かそうとしませんでした。 同じ体勢で長時間動かないことは、血流が停滞して血栓が形成される可能性があることを大学の講義で学んだのを思い出し、簡単にできる運動はないかと考えました。とりあえず、冷たい床の上では身体的負担が大きいと思い、物資の入っていた段ボールを何枚か敷き詰めることにしました。足踏みや背伸びなど、簡単にできる運動を紹介して回ると、「避難所じゃよく眠れないし、早く家に帰りたい」と胸の内を語ってくれる方もいました。「必ず帰りましょう。それまで体調崩さないように気をつけてくださいね」と、その場しのぎのセリフを言うことしかできない自分に無力さを感じました。しかし、「話を聞いてもらったら楽になったよ。ありがとう」と言われたときは、心がふっと軽くなりました。 看護師の資格がない学生の自分は、町の保健師さんのように住民の血圧を測って回ったり、体調に関する相談にのれたりする訳ではありませんでした。でも、どんなにちっぽけなことでもよいから、「役に立ちたい」という思いがあったのは事実です。その結果、積極的に声をかけたり、1日3回の炊き出しをがんばったりすることができたのだと思います。* この震災で、たくさんの人が亡くなりました。たくさんの人が悲しみに暮れました。しかし、たくさんの人が、この災害に負けないで、生きようとしていました。私もそのうちの1人です。まだこの震災は終わった訳ではありません。原発による放射能の問題から故郷に帰ることも許されず、未だにたくさんの人が避難生活を余儀なくされています。PTSDを発症する人が増えることも予想されます。テレビやラジオから流れるニュースは震災一色に染まっていましたが、最近は地震などなかったかのように普通の生活に戻っています。しかし、本当の震災はこれからだと思うのです。いま、私にできることは本当にちっぽけなことしかないかもしれませんが、いま自分ができることについて考え、実行していくことが大切だと思っています。将来看護の道を歩む1人の人間として、自然とわき起こり溢れた「役に立ちたい」という想いを大切にしていきたいと思います。①「困っている人に何かしてあげたい」「何かしなくてはいけない」という思い 地震のあった日、私は家でテレビを見ていました。やかんのお湯が沸騰して、コンロを止めに立った瞬間に揺れ始め、そのうちにいままで聞いたことのないくらいの音と揺れがきました。慌てて外に逃げ出し、祖母と妹と一緒に揺れのおさまるのを待ちました。このとき、日本全体がどうなっているのか想像する余裕もなくて、ただただ道路の真ん中にしゃがんでいました。家の中は土壁がはがれ、まるで砂場。信じられない光景でした。そして太平洋側で大きな津波が発生し、たくさんの人が亡くなったことをラジオで知りました。とても怖くて悲しい1日でした。 停電と断水の中で迎えた次の日、早速給水場へ行きました。朝から地区の人たちは長蛇の列をつくり、タンクに水をもらっていました。このときみんなに水を配っていた水道局の方々には、自分も被災者なのに働いてくださって、感謝してもしきれない思いでした。同じように、私の友人の何人かも、地震が起こってすぐ仕事で被災地に行って復旧の仕事をしていると聞き、私も「いま困っている人に何かしてあげたい」「何かしなくてはいけない」という思いが生まれました。②おにぎりづくりのボランティア 地震発生から1週間後、JAで避難所で配給するおにぎりを握るボランティアを募っていることを知りました。毎日約1,500個のおにぎりを30人くらいで握りました。握り方などで悩むことが多かったのですが、皆でどのような方法だと効率がよいか考え、試行錯誤しながらつくりました。最初は友人と2人で参加しましたが、気がつくと妹の友人や地震で仕事が休みの人、小学生などたくさんの人が参加していて、毎日参加している人たちと話すのが楽しくなっていきました。おにぎりはしばらくは塩味のみでしたが、職員さんが海苔や梅干しの持参を呼びかけたらたくさん集まり、たまに味を変えることもできました。みんなが「避難している人たちに温かい、ボランティアをして得たもの―笑顔の力阿部 仁美3年

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です