FUKUSHIMAいのちの最前線
128/608

122総務担当副看護部長は、救急外来で救急車が何台来ても対応できる態勢を敷き、事務室に戻って対応を統括しました。テレビからの情報しかなく、地元・福島の被害状況がわからない中、看護部は日勤者の勤務を延長し、準夜勤務者の数を2倍とする態勢をとることを決定しました。 そこで、日勤者の食事はどうするのかという問題が発生しました。病院の売店にはすでに食べ物が何もなくなっていたのです。19時頃、副看護部長が対応を協議しているときに、私はふと看護学校の授業で調理演習をしていたことを思い出しました。「看護学部には炊飯釜があるはず。それで炊き出しができる!」。 ちょうど同じ頃、同じことを考えついた職員がいました。看護学部事務のK主査です。看護学部には春休みの補習授業で20人ほどの学生が残っていました。地震後、学部校舎の窓から見える国道4号は大渋滞となり、路線バスは来なくなっていました。余震が続く中、テレビで地震・津波情報を見ていた学生たちは怯えてしまい、学内に泊まることになりました。「学生たちに何か食べさせなければ!」とK主査は考えましたが、調理室には米が両手ひとすくいと塩に味噌、それにラップしかありませんでした。売店にもポテトチップスしか残っていません。そうこうするうちに、17時頃、病院のすぐ近くにある蓬莱団地に住む教員が、自宅から米を15㎏持ってきてくれました。ラップがあるということは、衛生が確保できるということです。「全部炊いておにぎりにしよう!」。 看護学部の炊き出しには、いくつかの幸運が重なりました。「断水するかもしれない」という学部長からの情報で、調理室の鍋とヤカンをすべて使い、水を確保しました。停電がなかったため、宿泊実習用の小型電気炊飯ジャーもあるだけ使えました(施設管理の電気技師がタコ足配線にならないよう確認してくれました)。教職員や近くの寮から駆けつけた学生も加えて30人ほど、多すぎず少なすぎずの人手が確保できました。あとは米が続くかどうかです。 看護部管理室では、米をどう確保するか頭を悩ませていました。そのとき、副看護部長が「病院の栄養管理係に備蓄米があるはず」と言い、すぐに医事課へ手配を依頼してくれました。こうしたやりとりを、日頃から看護学部と看護部を行き来していた専門看護師でもある教員が聞き、看護学部の炊き出し隊につないでくれたのです。20時、看護学部調理室から、おにぎり第1陣100個が学生たちのワゴンで運ばれ、看護部に届きました。誰の予想よりも早く、涙が出るほど貴重な100個でした。 病院には20の病棟があり、1病棟に約20人の勤務者がいました。病棟ごとに5個の割り当てです。しかし、行き渡らせることが最優先と、副看護部長と私はおにぎりを配って回りました。第1陣のおにぎりを配っている頃、看護学部調理室に病院の備蓄米約30㎏が5~6袋届けられました。2升炊き炊飯釜3台と炊飯ジャー数台がフル稼働すると、2時間で200個のおにぎりがつくれます。K主査は「これでつなげる!」と思ったそうです。第2陣の200個は22時過ぎに配られ、おにぎりを握り終わったのは午前0時を回っていました。②他部署や外部からの支援者にもおにぎりを―あらゆる部署にかかわる看護部 当初は夜勤者や学生に食べさせるための炊き出しでしたが、このおにぎり供給ルートが震災直後の3日間、病院活動の生命線になっていきました。医師から看護部に、「おにぎりはどこに行けばもらえるのか」という問い合わせも入るようになりました。3月12・13日の両日、2時間おきに200~300個、各日それぞれ1,100個が看護学部の炊き出し隊から病院に届けられ、病棟だけでなく、院内各部署や、12日に到着した全国各地からのDMAT隊にも配布されるようになりました。 また、災害対策のため1日3回多職種で開催した全体ミーティングで、おにぎりを持ち帰ることができるように準備すると、出席者がお礼を言って持っていく姿が見られました。いつしか、おにぎり情報が全体ミーティングのホッとできる話題になっていったのです。福島市内はほとんどが断水し、コンビニもスーパーも閉鎖となり、市民の食料確保が難しくなっていました。こうした中、ほとんどが福島市内に住む当院の職員にとって、院内で配布されるおにぎりは大変貴重な食料となり、また職場の安心感にもつながったのではないかと思います。 3月13日に、県立会津総合病院から応援看護師が到着しました。おにぎり主担当として院内をワゴンで走り回る私にも、T看護技師が助手としてついてくれました。おにぎりの数が増え、院内で知られて1日800~1100個地震・津波・原発事故への対応

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です