FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線121め、患者さんは家族や自宅等の安否確認が不可能な状況となり、余震の恐怖とともに不安と緊張を募らせ、精神的負担は大きいものでした。また、一時的に治療を中断せざるを得ない患者さんもおり、やり場のない気持ちを看護師に語り続け、看護師はただ受け止めることしかできませんでした。一方で、看護師も同様に被災者であったことは忘れてはならないと思います。③福島原発事故の影響 福島県は津波をはじめとする被害ばかりではありませんでした。3月12日現在、福島第一原子力発電所の事故において避難地域が20㎞圏内に指定され、大規模な患者・介護者の搬送が始まりました。病院の窓口では、圏内から来られた人々に対し、放射線量測定が行われました。 はじめは放射線被ばくによる健康被害についての情報が氾濫し、地域住民のみならず、看護師間でも不安と緊張が広がっていきました。刻々と流れるニュースから情報を得て憶測を深めるような状況の中で、病院においては前述の全体ミーティングで放射線被ばくに関する情報提供や放射線の専門家からの説明があり、相談窓口も設けられました。 しかし、震災と放射線という未曾有の出来事に看護師はどこかそわそわし、心身ともに不安定な状態であったことも事実でした。「もっと大変な人たちがいるのに、自分が楽をしていてよいのか」「もっと何かできないだろうか」「自分には何もできない」などの声が聞かれ、自責感や無力感、焦燥感を感じていました。自身も小さな子どもを家に残し、また深刻な被災地域にいる家族の安否を思いながら、看護という仕事を遂行しなければならない看護師たちの心境はいかばかりであったかと思います。私の所属する病棟のリーダーたちは、スタッフが危機に陥らないよう、怖さや不安の感情を表出し語れる機会を設けたり、笑いが出たりする普段と変わらない生活を大切にする雰囲気をつくり、緊張の緩和をはかっていきました。そのような状況で、混乱することなく気丈に患者さんのケアをしていたことは、専門家としての責任感や使命感と精神力の強さの表れであったと思います。心が折れそうになったときは、当大学のリエゾン看護師らがケアを担ってくれて、大変心強く感じました。被災者でもある看護師のこころのケアをタイムリーに現場で具現化する役割の存在は、大変貴重なものであったと考えます。④震災を振り返って 今回、がん看護専門看護師として私自身はがん看護に特化した活動はできませんでしたが、災害時におけるがん患者へのケアを再考する機会となりました。私は災害派遣ナースとして、地域で生活するがん患者の様子を少なからず知っていたはずなのに、備えができていなかったことには反省させられました。 地震後、慌てるように探し出したのは、WEBサイト「災害看護 命を守る知識と技術の情報館-あの時を忘れないために(兵庫県立大学院看護学研究科21世紀COEプログラム)」であり、誰もが災害看護の情報を取得でき、地域住民も専門家も災害に備えることが可能な情報ネットワークでした。災害時期や高齢者、子ども、がん患者、こころのケア等の役立つマニュアルが掲載されており、災害時の看護の指針として活用することができました。今後、今回の震災におけるがん患者へのケアを体験も含めて見直し、新たな情報を発信するなど、システムを構築していくことが求められていると思います。 福島県では現在でも震災や放射線問題が進行中で、復興への道のりは長いものと考えます。置かれた状況は異なりますが、阪神・淡路大震災時の被災者の強さとたくましさ、忍耐強さについて振り返り、いつの日か、福島の人々にも震災と放射線問題を乗りきってきたと言える未来があることを信じ、そこにつなぐ役割を看護の場で果たしていきたいと考えています。①勤務延長となった日勤者、帰れなくなった学生―思いと米をつなぐ 私が看護部管理室の専任の新人教育担当になり1年が過ぎようとしていた3月11日14時46分、福島県立医科大学附属病院3階の看護部管理室は、かつて経験したことのない猛烈な揺れに襲われました。寄せ机は地割れを起こして離ればなれとなり、パソコンや書類棚など立っている物はすべて振り落とされました。誰もが本当に3分間だったのかと思うほど、揺れは長く繰り返し続き、私は身を隠す術もなく、ロッカーとドアを押さえながらうずくまっていました。 揺れがおさまるや否や、看護部長、副看護部長全員が部屋を飛び出し、所管する部署に向かいました。おにぎり担当者奮戦記―震災直後の職員への食料調達菅沼 靖子看護部管理室福島県立医科大学附属病院の活動記録

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