FUKUSHIMAいのちの最前線
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第2章福島医大関係者行動記録〈手記とメッセージ〉FUKUSHIMA いのちの最前線97フトを組み替えて二交代制になったのが、確か15日だったと思います。─先生方は残られた。菅野 残りました。私は家族も親戚もみんな福島県にいるし、避難するところはありませんでしたから。大久保 私はシフトの合間を縫って何度か部屋には帰りました。でも、シフトの時間はバラバラだったし、あの状況だったので、いつ帰ったのか、ほとんど覚えていません。─放射線被曝に関する知識はどの程度持っていましたか。医学部でのカリキュラムにはほとんどなかったのではと思うのですが。五十嵐 食べ物から放射性物質が検出されたという報道があった前後、3月18日だったかと思いますが、放射線医療の専門家である長崎大学の山下俊一先生がわざわざ病院まで講演に来てくださったんです。その話を聞いて、放射線への対処の仕方というか、心構えができたという気がしますね。ただ漠然と不安がっていてはいけないという気持ちになりました。科学的な根拠をもって、ちゃんと数字を示しながらお話してくださったので、説得力があったんです。先生が話された言葉の中で、「正しく怖がる」ことが重要と認識しました。大久保 夜の8時からという遅い時間にもかかわらず、医師以外に、看護師や病院スタッフの方などもたくさん聞きに来て、会場はあふれんばかりの人でした。山下先生の話を伺いながら、「原発がある県にいるのに、知識が足りなかったね」と研修医の間でも反省したんです。同大医療人育成・支援センターの大谷晃司氏 福島原発の事故で負傷者が出たときに受け入れる病院は、(双葉郡の)県立大野病院であり、そしてこの福島医大であることは分かっていました。しかし、実際の受け入れ体制がどうなるかを病院のスタッフが認識していたかというと、十分ではありませんでした。学内に簡易な除染用の施設があることは知っていたけど、当初はどう使えばいいのかも正直分からないというのが実情でした。非常時の対応については、学生や研修医の教育のみならず、院内のスタッフへの周知も今後の課題ですね。五十嵐 僕は当時、救急科所属だったので、事態が少し落ち着いた後も除染を担当させてもらったんです。放射線の知識をつけた後での作業だったので、いい経験ができたと思っています。菅野 私は、除染施設に入っていく五十嵐君を応援していました。ちょうど、被曝した作業員が福島医大に運ばれて来ると全国放送されたときで、彼は除染のスタッフ、私はビニールシートなどを準備する係でした。─非常時のシフトが解かれた後、皆さんはどうされたんですか。五十嵐 通常の初期研修のローテーションに戻った後は、研修医によっては避難所に行って活動しています。大久保 大学ではいろいろな科の先生を集めてチームを作っていて、2チームぐらいで毎日避難所を回っていました。私はローテーションで小児科にいたので、小児科チームの一員に加えていただいて、4月に新地町の避難所5カ所ほどを回りました。実際に避難所へ行ってみると、診察が必要な方は赤ちゃんや子どもだけじゃなくて、小児科のチームだけど、お年寄りをはじめ、いろんな方を診ていました。ただ、私が行ったのは4月中旬だったので、3月に回った先生方とは違って、慢性疾患への対応が多かったです。花粉症とか、腰や関医師としての自分の役割をすごく考えた左端は福島県立医大医療人育成・支援センターの大谷晃司氏(同大整形外科)。大震災に当たっての学生、研修医の活動を記録し、発信している。菅野 優紀氏

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