FUKUSHIMAいのちの最前線
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96Cadetto 2011 №2 Summer「大震災で僕らは… Vol.6」(日経メディカル オンライン)掲載福島県立医大の研修医が体験した大震災五十嵐 亮 Ryo Igarashi (福島県出身)福島県立医大研修医2年目菅野 優紀 Yuki Kanno (福島県出身)福島県立医大研修医2年目大久保怜子 Reiko Ookubo (秋田県出身)福島県立医大研修医2年目原発は不安でしたが、病院に残りました─3月11日の震災発生直後、福島医大の研修医の先生方は全員、救急科の下、初期治療チームとして組織されたんですね。五十嵐 僕はちょうど救急科をローテーション中でした。地震発生の直後から大勢の傷病者の搬送に備え、病院の正面玄関でトリアージタグを持って待機していました。菅野 私も救急科にいました。ただ、大学病院までの主要道路が寸断されたこともあり、地震直後、重傷の方はほとんど来ませんでした。大久保 私がいた科は、地震直後に黄色タグのブースに指定され、あちこちからストレッチャーを集めたりしました。でも、11日の夜は、思ったほど患者さんが来なかったので、救急外来などあちこち見て回っていたんです。すると、研修医全員に集合がかかり、翌日からは救急への所属となりました。 研修医の中で3交代のローテーションを組みましたが、最初はみんな病院にずっといましたね。ガソリンを確保する目処が立たないし、市内は断水もしていたので。五十嵐 ほかの人と一緒にいる安心感もありました。大久保 福島第一原発の事故への不安が大きかったですね。大学にいる方が情報を共有しやすかったので。3号機爆発、その時…─地震直後こそ患者さんは来なかったものの、12日に福島第一原発1号機が水素爆発を起こし、状況は一変しました。大久保 避難命令が出てからは、急に慌ただしくなりました。相双地区の病院から1度に50人もの方が搬送されてきました。五十嵐 14日に、今度は3号機が爆発して、このときはさすがに院内でも情報が錯綜していました。大久保 爆発で怪我をした方が搬送されてくると聞いて、その方に対応することで自分たちがどのくらい被曝するのか、まったく分からなくて…。何もかもが突然のことで、二次被曝にどう対処したらいいかもよくは分からないまま、みんなでヨウ素剤を飲んで待機していました。実際に診察した先生の話を聞くと、搬送されてきた方はそれほど被曝はしていなくて、普通の外傷患者として対応できたということですが。五十嵐 (福島市内の)この場所自体が安全かどうかも分からない状況だったんです。大久保 14日の混乱が少し落ち着いた後、避難したい人は避難してもらい、残る人は働こうと、研修医それぞれに判断が任されました。子供がいる人、親から帰るように求められた人、精神的ストレスを大きく感じていた人。そういった人たちはいったん休んでもらって、シ 東日本大震災の発生直後、全員が救急科の指揮下に入り、初期治療チームとして活動した福島県立医科大学の初期研修医。大地震から原発事故─。研修医1年目で経験した東日本大震災を3人の医師に聞いた。(聞き手:石垣恒一、Photo:Katsuya Abe)五十嵐 亮氏大久保怜子氏

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