菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜

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220. 時には相手側の立場の視点を

原発事故以来、1年半、心に余裕の無いまま走りに走り、今に至っています。
その間、大学の教職員は「よくやっている」の一言に尽きます。原発事故対応で求められる仕事が一挙に増えても、戦線を離脱することなく頑張っている姿は、使命感で支えられているからできるのだと察しています。

只、最近、心の余裕の無さが相手に不快な、あるいは悲しみを与えているのではないかという風景をみたので、筆を執りました。

毎日、委託業者の方々が施設の掃除に入っています。私の部屋には、朝8時に掃除に入って戴いています。その後も、私の棟は、廊下も含め、一日に3度掃除をする姿を目にします。私は会う度に挨拶をして通り過ぎます。
ここ数週間、廊下の特定の所に酷く黒い汚れが目立つようになってきました。何故なのかと訝(いぶか)っていたところ、先日、その足跡が、ある一箇所の出入り口に集中していることが分かりました。
この間、毎日、何度も、掃除をする方々が跪(ひざまず)いて、黙々と懸命に頑固な黒い汚れを落としている姿を度々目にしていました。汚れていれば掃除の仕方が悪いと言われてしまうからです。

この汚れを当事者本人が気が付いていないのか、あるいは気が付いていても気にしないのか、更には周りの人間が気が付いていないのか、あるいは注意をしないのか、いずれにしても、私は訝しがっていました。
あまりにもその汚れが酷くなってきたので、その部屋のスタッフの人に注意しました。直後から汚れがなくなりました。以後も汚れの再現はありません。恐らく、汚していた本人も自覚していたのでしょう。

このことは、一人一人の心の余裕のなさもあるかも知れませんが、掃除をする立場、そして文句を言いたくても競争入札させられている弱い立場、あるいは雇われている人間の立場を考えて、言いたくても言えない人や組織の立場に思いを馳せるべきです。
大事は小事に宿ります。このような無神経さの積み重ねは、いつか信頼関係や組織の一体感の欠如に繋がります。と同時に、我が国の文化の特質でもある「空気」に大きな影響を与えてしまいます。

もう一つは、毎朝の附属病院のロビーでの外来受付窓口の混雑です。
朝の混雑時には、患者さんが2列になって玄関までその行列が続いています。私は、以前勤めていた病院や、今、再建に取り組んでいる病院でも柔軟な対応をスタッフに説いてきましたし、説いています。
受付窓口が混んでいるのであれば会計の窓口を受付に変えて、あるいは会計の人達が手伝う、逆に会計が混み合ったときには受付窓口の人達が会計に応援に入る、という体制が何故とれないかと思います。
できない理由は色々あります。そういう契約になっていない、あるいはそのようなシステムがない、などです。

今の状況は、組織が5年後本当に存在するのかという危機です。現に、日本を代表するメーカーでも消滅するかもしれない現実の危機が、眼前に展開しています。そのような中で、今後本学を取り巻く状況は厳しいと言わざるを得ません。しかし、自分達の手で明るい未来を掴まない限り誰も助けてはくれません。

そのようなことを考えるとき、どうしたらできるかということを考えて行動を起こすべきです。
相手の立場になった時、その長い行列の脇に一人でも職員を配置して声を掛け、謝ったり、急ぐ人に臨機応変に対応したり、今すぐできることは幾らでもあるはずです。
こういう行為は、契約の問題ではなく、一人一人の思い遣りという気配りの問題です。そういうことができないと、心に余裕の無さ、あるいは全身をハリネズミのようにアンテナを張り巡らせておく敏感さに一つ欠けていると思われても仕方ありません。このような小さな仕草や態度が相互信頼関係を生むのです。

一つ一つは取るに足りないものです。しかし、このような積み重ねが個人、あるいは組織への評価に繋がっていくのではないでしょうか。
私は「骨接ぎの子」として生まれ、医療関係者や患者への医師の傲慢な態度を側でみてきただけに、どうしても医療提供側の態度が気になってしまいます。でも、そのように我々が気を配っていることが相手に分かってもらえただけでも「空気」は変わるのです。

(2012.08.27)

 

 

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