菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜

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204. IT化という時代に流されるな(「整・災外」50:193, 2007より改変)

医療の現場も、電子カルテ、オーダリングシステム、包括医療の導入、メールでの連絡や会議などIT化の流れの真っ只中にいます。レセプトのオンライン化も時間の問題です。IT化は、医療制度のみならず、医療のシステムを大きく変えつつあります。しかも、この流れは今後加速されることはあっても、止まらないでしょう。

IT化の流れのなかに、我々医療人が忘れてしまうと、医療人の自滅に繋がる深刻な問題を含んでいることに留意しておく必要があります。それは、人と人との直接的な関わりの重要性です。IT化の現在、現場をみると、仕切られた空間で、画面上で情報や連絡をやりとりし、同僚や関係者と顔を合わせないで一日が過ぎていくというのが珍しくありません。Face to faceによる意思疎通の希薄化です。一方、診療行為は、その殆どが医師と患者さんとの一対一の関係で成立しています。コンピュータでEBMに基づいた結論を引き出すのは一瞬ですが、それは医療行為の極一部でしかないのです。現場では、患者さんと一瞬に信頼関係を確立して、患者さんの背景を斟酌しつつ診察を進めます。その後は、治療方針を話し合います。治療中は、患者さんに共感を示し、励ますという行為が続きます。しかも、当事者間だけの交流が、医療の質や患者さんの満足度を決めてしまうのです。

医療現場では、若手がしくじりをして、先輩から怒鳴られながら研修しています。そんな中にも、若手は先輩の優しさを肌で感じて先輩を慕うのです。そんな日には飲みに誘ってくれる仲間の気遣い、そして先輩や上司のさり気ないその後の気配りに若手が涙する日々の積み重ねがあります。また、カンファレンス、打ち合わせ、そして報告や会議という行為の中で、人は、表情や声音から相手の考えを読み取ります。その中で、師匠や先輩は部下や後輩のやる気や体調、そして悩みの有無などを看て取れます。

このような、人と人との直接的な交流から、人間は、相手の心を読み取ったり、相手に好印象を持ってもらうknow-howが身に付いていきます。当然、自分を表現する手段には、言葉だけではなく、表情、立振舞、服装、その人の人生行路が含まれます。このような日々の営みの中での鍛錬により、若手は、“どうしても自分の思いを相手に伝えたいなら、その家の飼い犬にまで頭を下げる”といような気配りがさり気なくできるようになります。IT化という今の時代だからこそ、忙しい診療の中で我々が患者さんの心を一瞬にして捉まえることが出来るかどうかは、大袈裟にいえば、医療のプロとして自分の全人格を賭けた戦いでもあるのです。

IT化の流れの中でもう一つ、組織の中で生きる人間として忘れてならないのは、“人生の扉は他人の評価で拓かれる”ことです。人は、自らの努力で自分の道を切り拓いたと思いがちです。しかし顧みると、人生の道々で出会った先達達が自分を認めてくれ、引き上げてくれたからの今なのです。ここにも人と人との繋がりの重要性を看て取れます。

IT化の医療現場で、医療のkey personである医師が他者への優しさや気配りをさり気なく発揮すると、その場の空気が和み、患者さんも少しは癒されます。この積み重ねが、治療成績や患者さんの満足度の向上に寄与しているのです。このことが明らかになったのは、EBMがもたらした最大の皮肉(功績)かもしれません。
こういう時代だからこそ、人と人との直接的交流の重要性を各自が再認識して、自分を磨き、積極的に他人との接触を図ることで、最終的には、医療に対する国民の信頼がより高まることが期待されます。

 

 

 

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