菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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135.理屈は後からついてくる

医師は長い年月にわたる研修が必要です。研修医の時代に、それが何故必要かをいちいち確かめてやっていられる程、十分な時間を与えられていません。では、どうしたら良いのでしょうか。やはり、徹底した模倣がスタートです。いつか書いたかも知れませんが、偉大な芸術家の足跡をみると、最初は全て徹底した模倣から始まって、個性はその後自ずと出てきているのが良く分かります。最初から個性を意識して出しているわけではありません。自分の行う行動が何故必要かは、後から理解すればいいのです。それを理解して出来るようであれば、それは既に研修医の域を越えているわけです。そんな人間は残念ながら我々の周りには殆どいません。

どうしてこのようなテーマで書くことになったのかを記してみます。今朝のカンファレンスで、胸椎の手術の後に麻痺を起こした患者さんが事件の発端です。この患者さんには危険の高いことは十分説明してありますが、しかし、それでも患者さんは、足が動かないという現実を目の前にする時、鬱になるのは当たり前の事です。しかもその上、褥創ができ、その褥創の手術も必ずしもうまくいってないという事実を目の前にした時、手術というものに対する不信感、自分自身どうにもならない苛立たしさに、更には誰にもぶつけようのない怒りで、人間の感情が平常心を保てるはずがありません。主治医、並びにグループ長の「家族、本人とも落ちついています」、そのような言葉を聞いた時に私は熱くなりました。

たとえその患者さんに精神的なサポートを与える為に精神科の教授に相談をして、成し得る限りのベストを尽くそうという姿勢を見せても、医学的には最終的な精神状態や治療成績にはかわりはないでしょう。医学的にはそれは正しい。しかし、医療的にはそれは間違いです。何故なら、我々は自分の心に対しても患者さんに対しても、また、患者さんの家族に対しても、「我々は成し得る全てをしている。結果的に麻痺は起こしたけれども、その後それに全力で、患者さんが早く冷静な感情になり、自分のあるがままの姿を受け入れられるようにあらゆる手を尽くしている」ということを、目に見える形で表現しなければなりません。そのような医療側の姿勢が、患者さんや家族を「やるだけはやってもらった」という気持ちにさせ、事実を受け入れる精神的割り切りが出来るようになるのです。それは、医師が自分の一生背負っていく重荷を少しでも軽くする為にも必要です。

このような事を、私が教授就任後5年も経って言わなくてはならないことに少々がっかりしています。研修医ならいざ知らず、私と寝食を共にして働いた人間達が、このようなことが分からないとは、あまりにも情けない話です。或いは分からないのではなくて、分かっていても、医学的には同じだからやらないと思っているのかも知れません。しかし、それは、医療と医学は違うということを認識していない証拠です。

我々は患者さんや家族に対してもある種のパフォーマンスが必要ですし、自分自身の心を納得させる為にも、成し得る限りのことをする必要があります。やはり5年も経つと、今までは恐る恐るやっていたり、不安にかられながらやっていたことがどんどんと出来るようになり、技術的にも知識的にも一流、医師としてのマナーも一流のものを身に付けると、その時、そこにこそ大きい落とし穴が待っているような気がします。このくらいでいいと思った時に、すでに我々はそこに限界を見てしまっているのです。そのことに気が付く必要があります。

一流と超一流との間には、知識、技術、あるいは哲学の上でほんの少しの差しかないように見えるのです。しかし、それは錯覚です。二流と一流との間にある、一見大きな断崖があっても、それは実際にはたいした差ではないのとは対照的です。一流と超一流には余程の努力と自省をして、「志」がないと越えられない距離があります。

もし、そうでなくて、教授の言う事は適当に聞いておいて、はい、はい、と言っておけばいいと言ったら、それはもはや医師としてのプロの道を放棄し、組織内のちまちまとした生き方で、サラリーマン根性で生きていこうという意思表示に他なりません。私はそのような弟子は欲しいとは思いませんし、自分の可愛い弟子達をそのような医師には育て上げようとは思っていません。日常臨床では、どんな合併症が起こるかも知れない、誰に合併症が起こるかもしれない、このような、暗闇の中で物を探しているような状態で日々の医療を行っているのです。ですから、誰に、どんな合併症が起きても、患者さんから、「あれだけ一所懸命やっててもらってこういう結果だからしょうがない」と、言ってもらえるような診療を、治療前から提供していくのが我々の義務ではないでしょうか。

 

 

 

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