菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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124.日々新たなり、烈志暮年 壮心不已

医師は研修の進捗と共に知識、技術、患者を説得する為のノウハウ、或いは患者さんがどうしたら医師を信頼してくれるか等を会得していきます。しかし、人間は不思議なもので、知識技術の獲得と共に、いかに楽をし手を抜くかについてのノウハウも、否応なしに身に付けてしまいます。これは良いとか悪いとかの問題でありません。人間が持っている悲しい性でもあります。人間は医師に限らず、良い面を身に付けると共にそれに附随している悪い面も身に付けてしまいます。人間に良い人間と悪い人間が居る訳ではないのと同様です。あくまでもコインの表裏の関係です。 最近、私に来る数多くの依頼原稿の一つを自分の最も信頼している部下の一人に任せました。彼の能力、人柄どれを取っても私のそれを越えています。それは、以前タイトル43に書いた様に、その人間を評価する時点に自分を戻しての評価のみならず、現時点の私の立場からの評価でも私の評価は変わりません。しかし、その様な人間であっても、時には、明かに妥協した産物としか思われない様な仕事振りを示します。ここに、我々の陥り易い落とし穴の一つがあります。 彼が、手抜きと写る様な仕事振りをした原因には幾つか考えられます。一つは明かに手抜き、適当に書いた可能性があります。つまり、自分で完璧な原稿を仕上げる能力がありながらも、この程度で良いだろうとその論文の程度を見切った可能性です。もう一つ考えられる事は、自分が、完全に理解していないという認識がありながら、手を抜いて書いている可能性があります。それは自分への妥協をしているということです。妥協なき努力をして、ひたむきにそのテーマの完璧さを記すという気持ちがここでは失せています。

最後にもう一つの可能性があります。それは非常に恐ろしい事です。自分が手抜きをしていることを自分自身が認識していない可能性があることです。この様に、その人間の評価に不相応な仕事振りをした場合には、評価する側からすると色々と考えられます。いづれの理由によってこの様な仕事振りをしたのかは分かりません。本人でも分からないのかも知れません。しかし、No.85で述べたように、スタッフは結果で、研修医は途中経過で評価されます。スタッフである以上は、結果が全てですから、言い訳は利きません。

どうしてこういうふうになるかを考えてみると、これもまた私にはよく分かります。自分の辿ってきた道だからこそよく分かります。医学という同じ道を志して歩く以上、皆同じ様な失敗を、同じ様な経過で繰り返すのです。口でいくら教えても失敗を避けるということは出来ません。他人の学習効果は遺伝しないのです。その違いは経験する時期の違いだけです。どんどん自分を磨いていけば早く経験し、遅ければ遅く経験する訳です。だから、失敗をしないように心掛けなければなりませんが、失敗しない方が良いかというと必ずしもそうは言えません。失敗しなければ覚えられない事の方が多いように思います。

知識や技術が付くにしたがって、どの様にでも自分の力加減をコントロールすることは可能なのです。能力のある人間にとっては、その様なことは決して難しい事ではありません。しかも、それで大体は世の中通ります。しかし、世の中は明き盲ばかりではありません。盲人が盲人の手を引く様な世の中ばかりではありません。やはり目利きはいます。そういう目利きが出来る人間にとっては、その理由はともあれ、手抜きと写ります。評価する側がその人間の能力を充分に把握していない場合には、能力が無いと写ります。これは評価される身にとっても、組織にとっても、ひいては世の中にとっても幸せな事ではありません。

では、この問題をどう克服したら良いのか、という事になります。私自身は、「日々新たなり」という気持ちでやる様に努力しています。そう思って努力しても、到達できるレベルは自分の理想とする半分もいかないのが実情です。そう思って努力しても目標とする半分もいかないのであれば、手抜きをしたらその結果は、もはや顕かです。しかも、年を重ねると共に、或るいは一つの仕事に携わる日々が長くなると共に「日々新たなり」という気持ちを持ち続けるのは、想像以上に困難なものです。怯懦を却ける勇猛心を日々持ち続けるのは、言うは易く行い難いものです。

ですから、新たな仕事に取り組むとき、自分の目の前の問題を処理しようとする時、一瞬で良いから、昔の情熱をもって、寝食を忘れて一つの事に打ち込んだ医師としての青春時代を思い出すのが、これを克服する一番の方法なのではないのでしょうか。お互い、「日々新たなり」、「烈志暮年壮心やまず(烈志暮年 壮心不已)」を胸に頑張ろうではありませんか。

 

 

 

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