菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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106.どんなトラブルも最初は善意から始まる

医療をしていると、医療に関係して、医師同志、医師とコメディカル、医局同志、あるいは医局と他の病院との間で、トラブルが数多く発生します。人間と人間、あるいは組織と組織が接触を持つとどうしても、時に面倒が起こります。それはある程度は止むを得ないことなのですが、我々医師は一つの事実を認めなくてはなりません。それは、どんなトラブルも最初はどの人もそのことを善かれと思って行い、結果的にトラブルに至っているという事実です。

例を挙げましょう。他科のドクターが、自分の子供の手術を整形外科で受けようとしました。その時、手術は術者を自分で頼み、病室も自分でセットし、手術日および手術時間までセットしました。悪いことに直前になって自分の都合から手術時間の変更まで言ってきたのです。整形外科の責任者である病棟長は、その事実を直前まで知りませんでした。こういう状態では病棟長は、病棟の患者さんおよびその予定を完全に把握していないので、不都合が知らないうちに起き、しかも何かトラブルが起きた時にどうにもならなくなります。

また、そういう時に限ってトラブルは発生するのです。この例が関係した何等かのトラブルが発生した時に、誰が入院の許可を与えたのか、誰がそのような無理な手術の日程を組んだのか、術中トラブルが起きた時にその責任は術者にあるのか、その術者は誰の了解を貰って術者になっているのか、ということが問題になります。しかも当の医師は善かれと思ってやっているわけです。また、整形外科の対応に当たった医師は、おかしいと思いながらも、遠慮があって筋を通さずに、結果として有耶無耶のままに土壇場まできてしまったわけです。

そのまま全てが何のトラブルのないまま終ればそれで良いのですが、往々にしてそういう時に限って何かトラブルが起きます。そういう時に初めて責任の所在はどうなっているのかということが問題になります。即ち、その指示は誰が出したのか、その許可は誰が与えたのか、ということが問題になります。この事例はまた、「医師」という一人の人間が自分、あるいは身内の人が患者になった時に起こる、「医師の特権や権限を持った患者」という誠に奇妙な状態の危うさを示しています。即ち、医師自身が医師としての立場と患者としての立場を混同していることから起きる問題です。

次の事例も似たようなものです。看護婦さんが救急患者として収容されました。当直医は「入院の必要なし」としました。しかし救急部の婦長は「寮に帰っても一人では大変であろう」という親切心から、この患者を医師に断らずに共用床の病室に入院させました。ところが、当直医師や病棟長はこの事実に就いて全く知りませんでした。翌日、収容されている病棟の婦長から「主治医は誰か、何故回診にこないのか」というクレームが整形外科に入りました。病棟長および主治医は全く預かり知らないことで、ここで初めて患者さんが入院しているという事実を知ったわけです。当然、報告がありませんから、主治医は誰であるかを病棟長は決めてある筈がありません。

この事例は、看護婦同志という仲間意識から病室を何とか探して入れたわけです。何の関係もない患者さんなら、たとえ入院の必要があっても、果たしてこのようにベッドが見付かってスムーズに入れたでしょうか。もっと重要な点は、誰がその患者さんの入院の適応を決めたのでしょうか。何かトラブルがあった時に、入院を指示した医師が誰かということになります。ここでは関係した医師は全くこの入院に関してタッチしていないのです。こうなると、全ては善意から始まっても、非常に感情的な縺れもあり問題を難しくしてしまうのです。

もう一つの事例を挙げてみましょう。ある政治家からの依頼で、大学当局の医事課長が、独断で部屋を確保し、その患者さんを入院させました。病院では、勤務時間内でベッドがない場合には病棟長がベッドを探すという規則になっています。ところが、往々にして先程の看護婦さんや医事課の方々のように、何かつてがあるとそれなりのルートでベッドが確保されてしまいます。そうなると、いつ患者さんが入院したのか、誰が入院の指示を出したのかが分からなくなります。

最後に私自身が、治療を受ける側の身内という立場になった時の経験を述べてみます。私の父は上腸間膜動脈塞栓症で、重体に陥りました。大学教授の強引な指示で、診断が付いたにも拘らず、大学病院で手術をするということで、手術がなされたのは発症後12時間以上経った時点でした。既に阻血性変化は不可逆となってしまいました。手術により血流は再開されましたが、腎機能はどんどん悪くなっていきました。その時に私の同級生が、その当時最先端の医療であった血液透析を提案してくれました。私としては出来る事は全てやってみたいという身内の心境から、これを了承し、やってもらいました。

後から考えると、これは明らかに私が医師としての権限や、医師としての立場で勝手に行動していた訳です。この方針、即ち血液透析をやるという方針は、主治医並び入院している科には全く知らされずに始まってしまいました。当然不可逆性の変化ですから、血液透析をして一時的には改善しても、全身状態は悪化の一途を辿るだけです。このような状態の時に、主治医が関知しないところでの、不当な治療方針決定や治療実施に強い不満を持ったことと思います。しかし、医師の身内という患者の立場を考慮すると何も言えなかったのです。最後には、誰が血液透析の治療中止を指示するのかという問題になって、とうとう私の同級生と私が、主治医並びにそこの講師や助教授にお詫びをして、血液透析を中止してもらいました。

このトラブルも元を正せば、私の同級生が善かれと思って善意からスタートした訳です。また、主治医はそれはおかしいのではないかという思いがあっても、患者が医師の身内という立場を考えるとそういう事をするのは止むを得ないという善意や遠慮から、敢えて当初は異を唱えませんでした。結果的にはそれがトラブルの元となった訳です。

この様に、医師や医師の身内が治療を受ける立場に立った時には、よほど医師と患者という立場を弁えて行動しないと、その行動が全て善意から出発しているだけに、それによるトラブル発生は難しい問題を含んでいます。

何度も繰り返しますが、何事も起こらなければそれで良いのですが、往々にしてこういう時に限って何等かのトラブルが発生します。トラブルの原因は往々にして連絡不徹底および指揮命令系統の混乱です。大きな組織であればある程その原則を外してはなりません。しかもその原則に乗っ取った上で、当事者に裁量権を発揮して貰う事が組織としてうまくいくのです。それが原則を外してやると、相互理解、あるいは連絡がうまくいかず、結果的にはそれ自身がトラブルの種になります。

しかもその悲劇は、全てのトラブルは、最初は各個人の善かれと思ってやった善意の行動から出発している事にあります。ですから、善意から何かをする時には、自分の行動は原則から外れていないか、ルールから外れていないかという事を絶えず点検して、原則に乗っ取って行動して、かつそれぞれのポストの責任者に裁量権を働かせて貰う事が一番旨くいく方法です。これは医療に限らず組織の中に生きる人間の大事が忘れてはならない大事なルールではないでしょうか。

 

 

 

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