菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

<< 前のページ  目次  次のページ >>

104.現状を嘆くよりも現状で何が出来るかを考えよ

私が教授就任してから、3年11ヵ月目に入りました。就任当初と比べたら研究体制の整備は、私でも驚くほどです。研究費の充足、研究助手の獲得、研究設備の充実は当事者である私でさえも今昔の感に堪えません。他大学から研修・見学に来た医師達が、「こんなシステムがあればなぁ」と異口同音にいう程です。しかし、それを利用する医局員はどうでしょうか。環境整備の充実度を認識し、それと共に意欲が高められ、その結果として業績が挙がっているでしょうか。医局員との会話の中で幾つか危惧を感じるところがあるので、自分自身の経験を踏まえて考えてみます。

以前にも書きましたが研究をする際に、設備が足りない、金が足りない、時間が無い、と言っていられる時の方が、研究者はずっと気が楽なのです。もし「全ての要求を満たしてやるからそれで君は何が出来る」と問われたらどうしますか。全ての要求を満たされて、その上で万人が納得する研究成果を出すのは、極めて辛いものがあります。

私は、自分の研究歴を振り返って面白いことに気が付きました。他人様に少しでも誉められる研究業績は全て、夜も日もない勤務医の時に作られたものです。この時期、一般病院ですが、研究設備や研究人員は有りません。僅かに、上司の好意による週一回の研究日が提供されただけです。時間がないから、「はじめに」から書いた論文は1通もありません。全て1項目ずつ、しかも逆から書きました。論文を書く時には既に結果は出ているわけですから、「まとめ」から書いていくわけです。その「まとめ」を出すためには「結果」があるはずです。その結果を別な機会に電車の中で書きます。

次に、その「結果」を出した「方法」があります。その方法は別な車中で書くわけです。更に、その研究を始めた動機があるわけですから、それを昼休みや手術の合間に「はじめに」として書くわけです。最後に、「まとめ」は3つか4つしかありませんから、それに対する色々な疑問や反対論を文献から、あるいは自分の解釈を入れて書けばそれで終りです。論文というのは、研究が出来ていればその作成はそんなに難しいものでは有りません。

翻って我が医局ではどうでしょうか。医局員は、私が経験してきた研究生活とは180度違う環境にいながら、医局員がその環境を認識し、感謝の意識を持っているようには見受けられません。ある人曰く「実験班になっても時間があまり出来ない」、ある人曰く「実験班になっても実験を手伝ってくれる人がいない」、ある人曰く「実験班になっても雑用が多すぎる」、こういう何故出来ないかの理由を聞かされると、私の嘗ての研究環境を思い出し、人間と環境と研究成果について考えさせられてしまいます。

考えてもみようではありませんか。実験班があって、実験のための時間が確保され、更に10月からは実験班は自分の専門外来以外は全くフリーになります。実験班の環境整備としてもそろそろ究極に近付いています。しかし翻ってみて、研究班の発足と共に研究業績が挙がってきたという証拠はあるでしょうか。もっと踏み込んで言えば、10月から殆ど自由に時間を使える人間は、今まで苦労しながら研究してきた人間より立派な研究業績を挙げ得るでしょうか。断じて否です。残念ながら研究業績は環境の豊かさとは関係ありません。時間がないから研究が出来ないとか、僻地にいるから研究が出来ないというのは嘘です。

人は、出来ないことを自分以外の要因にしたいものです。それは私も同じです。愚痴を言って自分を慰め、腹立たしさを紛らわせるのは誰にでもあることで、私自身もそういうことをします。それが欲求不満の解消でもあります。しかし本心からそう思って、自分以外の要因を自分の研究成果が出ないことの言い訳にしているとしたら、それは直ぐに改めた方が良いと思います。何故なら、前述したように「それではそんなに言うなら、あなたの言う環境整備を完全に整備してやろう。その代わり私が要求する研究成果を出しなさい」と言われたらどうしますか。

ですから我々が成し得ることは、現状を嘆くよりも現状でどんなことが出来るかを考えた方がずっと充実感はあるし、時間も旨く使うようになるのです。時間が有り余れば有り余る程、その時間を旨く使っていないのが自分を含めた人間社会の通弊ではないでしょうか。考えなければなりません。

 

 

 

▲TOPへ