ロールモデル集
令和4年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
- 関根 英治(免疫学講座 教授)
- 藤森 敬也(産科婦人科学講座 教授)
- 小林 大輔(細胞統合生理学講座 講師)
- 黒田 るみ(看護学部基礎看護学部門 教授)
- 古橋 知子(看護学部生命科学部門 准教授)
- 中野渡 達哉(保健科学部理学療法学科 講師)
- 石川 陽子(保健科学部作業療法学科 講師)
- 見城 明(看護師特定行為研修センター 教授)
- 大田 雅嗣(会津医療センター 血液内科学講座 教授)
- 大平 哲也(疫学講座 教授)
- 三浦 至(神経精神医学講座 准教授)
- 佐藤 薫(麻酔科学講座 講師)
- 後藤 あや(総合科学教育研究センター 教授)
- 関口 美穂(医学部附属実験動物研究施設 教授)
- 前島 裕子(病態制御薬理医学講座 准教授)
- 堀田 彰一朗(病態制御薬理医学講座 講師)
- 東 淳子(基礎病理学講座 助教)
- 黒田 直人(法医学講座 教授)
- 横川 哲朗(循環器内科学講座 助教)
- 大河原 浩(血液内科学講座 准教授)
- 平岩 朋子(皮膚科学講座 助手)
- 長谷川 靖(放射線医学講座 助手)
- 花山 千恵(麻酔科学講座 助手)
- 橋本 優子(病理病態診断学講座 教授)
- 本間 美和子(医学部附属生体情報伝達研究所 准教授)
- 加藤 成樹(医学部附属生体情報伝達研究所 准教授)
- 荒井 佳代(医学部附属生体情報伝達研究所 助教)
- 杉本 幸子(看護学部成人・老年看護学部門 助教)
- 亀岡(色摩) 弥生(医療人育成・支援センター 教授)
- 諸井 陽子(医療人育成・支援センター 助手)
- 小宮 ひろみ(性差医療センター 教授)
免疫学講座 教授 関根 英治
私は1993年に本学を卒業し、膠原病内科医を経て、卒後12目に基礎研究医に転向しました。もしあなたが基礎研究医を目指しているのであれば、参考にして頂けますと幸いです。・ブルーバックスを読み耽った医学部生時代
私の学業総合成績はごく普通でした。少し違う点は、当時黎明期であった分子生物学に興味を持ち、ブルーバックスで色々な自然科学分野の知識を得ていたことです。後にこれが他分野との共同研究を進める上で役に立ちました。基礎上級では、免疫学講座の遠藤雄一先生から、PCRや遺伝子クローニングなど、分子生物学の基本的手法を学びました。実は、この時点では免疫学講座のお家芸である「補体学」にはあまり興味がありませんでした。課外活動では、アルバイトで資金を得、海外個人旅行に費やしました。海外で欧米の同世代の学生と交流し、彼らの多くが借金して大学に通い、50代でリタイアして余生を楽しむ人生設計を立てていることに驚きました。心残りは、3年間で部活動を止めてしまったことです。部活に限らず、縦と横の繋がりの重要性は、後になってから理解しました。
・今思えば、一番重要だった研修医/大学院生時代
卒後は免疫学の延長にある本学の膠原病内科(粕川禮司教授が主宰する当時の第二内科)に大学院生として入局し、朝早くから深夜まで働いた初期研修を終えました。その後、免疫学講座に出向する形で藤田禎三教授(補体レクチン経路の発見者)にご指導頂き、無脊椎動物のホヤでのレクチン経路の存在を証明し、学位を取得しました。医学部を出てホヤの研究をすることに当初は抵抗がありましたが、この研究を通じて免疫学の奥深さを知りました。この時に習得した実験手技は、後のアメリカ留学時代に大いに役立ちました。もしあなたが海外留学を考えているのであれば「海外で何を学ぶか」よりも「海外で何ができるか」を意識しながら院生時代を過ごすことをお勧めします。なぜなら、留学先のボスはポスドクに後者を期待し、それによってあなたが得る成果も大きいからです。
・ひたすら楽しかったアメリカ留学時代
院修了後は、第二内科の関連病院で内科医として勤務しました。この時ご指導頂いた先輩の先生方からは、人生の歩み方について大いに薫陶を受けました。2年目が過ぎた頃、粕川先生から米国サウスカロライナ医科大学(MUSC)のProf. Gary Gilkesonラボへの留学の話を頂きました。私は迷うことなく留学を決意し、そこで補体C3を欠損したSLEのモデルマウスの腎炎の研究を行いました。結果は、予想に反して腎炎が悪化し、ボスと共に落胆しましたが、これが図らずともSLEにおける補体系の二面性(状況により善者にも悪者にもなる)を証明する結果となり、Journal of Immunologyに無改訂で受理されました。好きな研究にひたすら打ち込めた留学生活でした。この留学では、実験手技よりも問題解決に向けた多角的かつ合理的思考法を学びました。
・人生をかけたアメリカPI(principal investigator)時代
4年間の留学から帰局した時、粕川先生はすでに退官され、新しい教授が着任していました。大学では臨床医と研究医の二足の草鞋を履くつもりでしたが、研究を続けるには時間的制約が大きすぎました。折しも、アメリカでやり残した抗体のクラススイッチに関する研究が進展し、Prof. Gilkesonに再渡米の相談をしたところ、Assistant professorの職を用意してくれました。これは、PIとして独立ラボを持つ代わりに、人件費と研究費をすべて自分で稼がなければならないことを意味します。私は卒後12年目にして医局(臨床医)を辞め、再渡米を決意しました。MUSCとの契約書には「3年以内に研究費を獲得できなければ解雇」との文言があり、神妙にサインをしました。運良く、よく働く台湾出身のテクニシャンを雇うことができ、共に必死で働き、また多くの人にも助けられました。その後、研究成果をPNAS誌上で報告し、NIHから総額70万ドルの研究費を得ました。アメリカでは結果が全てといいますが、それはそれで本当です。しかし、私はアメリカについて、問題解決に向かって必死に努力している人には、自然と誰かがサポートしてくれる国というイメージを持っています。よい結果を出すためには、運も必要な気がします。これまで助けてくれた人たちと、再渡米に理解を示してくれた妻にはとても感謝しています。
・帰国と補体学
最初に渡米して10年が経ち、グリーンカードの申請に取り掛かった頃、藤田教授から帰国の話を頂きました。帰国には色々なことを諦めなければならない側面もあり、かなりの葛藤がありました。それまでは、自分の興味の赴くままに研究をしてきましたが、臨床医学につながる研究を強く意識し始めたのもその頃でした。私は藤田先生が築いた補体学を発展させる使命を感じ、帰国を決意しました。補体は多くの炎症性疾患に関与しています。帰国後は、眼科学、泌尿器科学、循環器科学、消化器内科学など、臨床医学講座との共同研究で成果を報告できたことに、少し安堵しています。
・後輩に伝えたいこと
今現在、基礎研究医として口に糊することが出来るのは、私自身に恵まれた才能があるからではありません。しかし、今こうして振り返ると、ターニングポイントを迎える前に、習得しておくべきことをクリアーしていたことに気づきます。それは自立した欧米の学生に影響を受けたからかもしれません。また、私にとって、人との出会いも大きかったと思います。それは運かもしれませんが、縦と横の繋がりが太ければ、そのチャンスも大きくなると思います。最後に、私をよく理解(我慢?)してくれる妻に出会えたことも大きいと思います。どれが一番重要かは、申し上げるまでもございません。
産科婦人科学講座 教授 藤森 敬也
私は、宮城県角田高等学校から昭和57年に本学に入学いたしました。皆さまご存じない高校だと思いますが、当時、学区制が厳しく、公立普通科というと角田高等学校しか受験できませんでした(競争率1倍越えは過去になし)。仙台のナンバースクールにコンプレックスがなかったと言えば嘘になりますが、共通一次試験を40名ほどしか受けないマイナー高校でしたが、福島県立医科大学医学部には3名受験し3名現役合格、弘前大学医学部に2名、東北大学にも数名合格するという快挙を実現した学年でもありました(1年先輩に、秋葉賢也元復興大臣、弘前大学産科婦人科・横山良仁主任教授がいらっしゃいます)。そして、昭和63年福島県立医科大学を卒業後、本学産科婦人科学講座に入局、そのまま大学院に進学し産婦人科学を専攻いたしました。なぜ、産科婦人科学講座に入局したかと申しますと、当時、不妊症研究・治療のメッカ(1994年、本邦で初、世界で2例目となる細胞質内精子注入法による出産例を報告)と言われていた産科婦人科学講座が光り輝いており、また、前任の故・佐藤章名誉教授が私を最も高く評価してくれたからです。佐藤教授と星助教授(元・山梨医科大学産婦人科主任教授)がカッコ良く、何でもできそうな気がしました。佐藤教授と星助教授が東北大学から赴任されていなければ、私は産婦人科学を専攻していませんでした。無給医局員であった大学院在学中は、他の医局員と変わりない日常業務、当直業務をこなし、産科、婦人科症例すべてにおいて、大学病院でしか経験できない貴重なハイリスク症例を経験させていただきました。また、大学院2年生の時にはNICUにて研修させていただきました。2年上に6名、1年上に10名、同級生が7名入局しているということから、手術症例がなかなか回ってこないため、自ら進んで当直をこなしました(ご存じのように産婦人科は臨時の手術が多いです)。
私は、佐藤教授のライフワークであった妊娠羊を用いた胎児生理学研究グループの末席に加わりました(本当は不妊症を専攻したかったのですが、専攻させてもらえませんでした)。大学院3年生(1991年)の冬だったと思いますが、ヒツジ(当時はヤギ)の実験がなかなか上手くいかず、鹿児島大学獣医学部と共同研究をしていた鹿児島市立病院(1976年、本邦初の正常発育した5つ子誕生)まで、ヤギの麻酔とChronic preparationのテクニックの見学に行かせて頂きました。このヤギ胎仔手術の見学とヤギの腰椎麻酔をご教授頂いた後からは、お陰様で福島での実験はとんとん拍子に上手くいくようになり、私は研究テーマを完遂でき、4年で無事大学院を修了し、学位も頂くことができました。現在でも当教室ではヒツジ胎仔のChronic preparationによる胎児生理学研究をお家芸として継続しています。
大学院修了直後の平成4年4月から2年間、米国・カリフォルニア大学アーバイン校へ留学の機会を与えていただきました。留学中は教授宅に居候させていただき、さながら内弟子生活でした。大学院時代と同様、妊娠羊を使った胎児生理学の研究を継続しながら、毎日、レジデントに混ざって臨床カンファレスや外来症例を見学させていただき、希少ハイリスク症例をたくさん経験させていただきました。最先端の米国臨床医学を学びながら、エビデンスに基づいた診断治療の大切さを教えていただき、また、たくさんの歴史的論文や教科書に出てくるような人物に接する機会を与えていただきました。現在においても、この時期に蓄えた知識、経験が、診療、医局員、学生への教育に生かされています。「自分の経験では、と話をする医者は信用するな」とは私の恩師、村田雄二大阪大学・カリフォルニア大学名誉教授のお言葉です。「わずかな経験で判断できるはずがない。稀な症例に沢山出会う可能性は低い。だから論文を読み教科書を読み知識を蓄える。いつもお前は患者に試されている。そのつもりで勉強しろ」と言われていたのを思い出します。
さらに、2008年の7月より3か月間、再びカリフォルニア大学アーバイン校に臨床見学をさせていただく機会を与えていただきました。16年前Associated professorだったDr. PortoがChairmanとなっており、お願いしたところ快諾してくださり、また、佐藤教授のご高配もあり実現いたしました。主に周産期胎児医学、婦人科悪性腫瘍手術の見学、レジデント・フェロー教育を中心に、16年前とは違った成果が得られたと思っています。産婦人科のオフィスに16年前に撮影された希望に満ちた自分の写真を見つけた時には、もう少し頑張らなくてはと思い直し、自分を見つめ直すいい機会を与えていただいたと思っています。
私は学位取得後すぐ、28歳という若い時に留学をさせていただける機会を与えていただきました。私も、若い先生にどんどん海外での研究・臨床に携える機会を与えて参りたいと思っておりますし、皆さんもすすんで留学してほしいと思っております。
最後に、私がこの歳、この立場になって、大学生や研修医時代にもっとやっとおけば良かったと思っていることが2つあります。一つは英会話、もう一つは統計学。これは医局員にも話をしていることです。私自身どちらも全くやって来なかったわけではもちろんありません。初めて海外旅行に行ったのは、大学5年生の夏休みでした。米国・San Diegoに1か月ホームステイして英会話学校(UCSD extension class)に通いました。その後も米国留学時、西海岸での学会の時など、その家族を訪問して交流が続いています。今思うと、もっと低学年の時から何回か行けばよかったと思っています。また、統計学については、現在ではいろいろな参考書やソフトがあり勉強しやすい環境にありますが、私が卒業した35年前はなかなかなく、ダイレクトメールで送られてきた医療統計学の通信教育を受けました。英語と統計学を身につけることは、ある意味、アカデミックの中で生きていくための重要な要素になっていると思います。
前任の故佐藤章名誉教授が本学に赴任されなければ、間違いなく産婦人科は専攻しておらず、そう考えると、もちろん努力は必要ですが、人生はめぐり合わせで決まっていき、その一つ一つのめぐり合わせが自分にとって何かと感じて決断できるかで決まっていくのではないかと思っております。
細胞統合生理学講座 講師 小林 大輔
ある日私の元へ「福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと」という後輩に伝えたいメッセージの執筆依頼が来た。ロールモデル紹介の取組である。最初の感想は「なんと仕事の速いことか」であった。と言うのも、私は令和4年度から本学のダイバーシティ推進室員を拝命し、この手の話に片足を踏み入れたばかりであったからだ。きっとその関係で私に白羽の矢が立ったに相違ない。私は農学部出身であり医療系学部出身者ではないため、本学の後輩達のロールモデルになりえるかと自問自答しながらも、折角なのでこの機会に皆さんこれから人生を考える際の材料になればと思い、ここに私のことそして私から後輩へのメッセージを綴らせて頂く。個人情報保護がうたわれるなか、明け透けに個人情報を公開するようであるが、私は高校2年生の時に大怪我をした。詳細は割愛するが、救急搬送されたときには右半身麻痺、言語障害があり、自分の名前も分からない状態であった。回復は徐々にしたものの、最初は今日が何日であるかとか、簡単な計算(100から7を引くなど)が分からず、親にも随分と心配をかけてしまった。その後無事退院し、日常生活に戻ったのだが、この時得た教訓は、“人生には突然がらりと変わる一瞬があり、そのような事態になったことを嘆いても何も解決しない”ということである。「以前はできていたことが何故今はできないのか」、「本来ならば今はこんなはずではなかった」と嘆いても、現実は何も変わらない。それならば、今できること、これからできることをどう行うかの方が余程建設的なのである。大学受験を控えていた私はその後とても真面目に勉学に励み、一時期簡単な漢字も読めない、算数の計算もできないという状態からなんとか大学に進学できた。思えば今も含めて人生で一番真面目に勉学に励んだ時期だったと思う。また、この怪我がなければここまで真面目に勉強をしなかったのではないかとも思う。まさに「人間万事塞翁が馬」である。
医学部は学部6年間の後、大学院4年間がスタンダードな修業年数であるが、総合大学では学部4年の後、修士2年、博士3年という流れになっている。私は学部在学中より研究者の道に進みたいと思っており、母校の大学院(修士・博士)へとそのまま進学した。私の指導教官は放任主義であまり細かいことはいわず、学生の自主性に任せていた。そのおかげか、学会先で知り合った他大学の先生、先輩・後輩と仲良くなり、気がついたら修士の時には他大学のラボで実験手技を学ぶということを経験させてもらった。私にはこの自分が所属する研究室を飛び出して、異なる研究室で研鑽を積むという経験がとても良かった。自分の大学、研究室の慣習や指導方針と異なる慣習・指導方針に触れられることによって、相互の良いところ、悪いところを感じた。「石の上にも三年」、何らかの体系だった知識、技術、経験などを習得しようと思うと一定の年月を要するが、時には自分が所属する集団からひとつ外に飛び出す経験も大切である。研究関係であれば他研究室で実験をしてみると、結構研究室独自のルールがあることに気がつく。合理的なものもあれば、只の慣習でしか無いものある。このような事に気がつける機会は外に出ないこと分からないのだ。また、これらは研究・仕事だけに限らず、人生についても同様である。例えば旅行でも良いのだ。福島県外に飛び出して、自県とは異なる慣習に触れる、日本を飛び出して日本人とは異なる感覚、文化などに触れることで新しい刺激が得られると思う。仕事ばかりしていても駄目なのである。そして、戻ってきた後に外の良い文化を取り入れて改善し、既存の良い文化を残していくと良いと思う。
最後に(一般にはライフイベントやライフと呼称されている)プライベートとワークについて語りたい。私の事例・考え方はあくまで一つのケースであり、色んな意見があると思うが少し紹介する。私は博士課程の時に結婚し、子どももいた。学位取得のための研究を進める傍ら、慣れぬ育児も行っていた。朝は子どもを保育所に預け、昼間は大学で研究を行い、夕方に一旦戻って子どもと過ごしたのち、また大学に行くというスタイルである。毎日ではないが、生活費を稼ぐために夜勤のバイトを朝まで行い、仮眠を取ってまた大学へという日もあった。時には週末に子どもを連れて研究室に行き、後輩に面倒を見てもらっている間に実験を行ったことや、夜中自宅で学位論文を執筆中に子どもにミルクを与えていたことを思い出す。当時子どもが大学のデスクに置いてあった耳かきの梵天に蛍光ペンで色を塗り、実験ノートにアートを仕上げてくれた耳かきは、今も手元のデスクに置いてある思いでの品だ。今考えるとよくやっていたなと思う。このような生活が成立したのは、一重に妻と周囲のご理解、手助けのおかげであった。実家に子どもを預けること、研究室に連れて行くことは日常茶飯事で、子どもにかかる行事で日中休むことも増えた。このような生活が無事送れたことは研究室のメンバー、指導教員が快く迎え入れてくれたためである。私も少々自分が情けないと思いながらも好意に甘えて両親、周囲を頼りまくった。今現在、子育て中の皆さん、これから家族が増える計画の皆さんに私から伝えたいことは、どんどん周囲を頼って欲しいということだ。無人島で子育てをしているわけでなく、人と人との繋がりのある社会の中で生活をしているのだ。周囲には助けてくれる人が必ずいる。もっと周囲を頼って良いのだ。また、諸先輩方は、頼って貰える環境を作って頂きたい。職場であれば休み等を言い出しやすい、相談しやすい雰囲気づくりなど意識して欲しいと思う。「情けは人の為ならず」、人を思いやる心があれば、巡り巡って自分に返ってくるものだと私は思う。
看護学部 基礎看護学部門 教授 黒田 るみ
令和3年4月,私は茨城県の自宅に主人と3匹の犬を残し,本学看護学部に単身で赴任した。28歳の時に長女を出産し,その後,家事をしつつ仕事を続けてきた私にとって,24時間を自分のためだけに使える今の生活は,幸せな,贅沢な時間となっている。昨年度,知人に送った年賀状の中で,私は「この時が来るのを28年間ずっと待っていた。やっとその時がきた,という気持ちです」と書いた。主人も娘たちも,私にとってはかけがえのない大切な存在であるが,それとは別次元で,自分の仕事がとにかく好きである。現在55歳の私が20代の頃,看護師が結婚や妊娠を機に退職することは当たり前であった。中には,出産まで病棟勤務を続ける看護師もいたが,夜勤はできない,力仕事はさせられないなど,当人のいないところで,周囲の人たちはよく批判していた。私は周りの人から陰口を言われながら仕事をすることが怖くて,長女は,大学院博士課程の1年目,次女は海外から帰国した時など,仕事から離れた時期に出産することを選択した。
結婚後は,千葉,米国,栃木,埼玉,茨城と,主人の勤め先の異動に伴い,私も職場を探した。次女が6ヶ月になった時に,大学病院の外来看護師として就職した。日勤だけの非常勤看護師である。主人や私の実家は他県にあり,知人もいなかったため,子育ては,基本的に主人と私とで行い,活用できる制度は何でも活用した。当時住んでいた栃木市では,ファミリーサポートセンターが開設されたばかりであった。我が家は真っ先に登録し,活用も第一号であった。センターの普及にと依頼され,栃木テレビに当時0歳の次女と二人で出演し,共働きの核家族夫婦にとって,このセンターがいかに頼もしい存在か,話したこともある。病後児保育にも制度の開始と同時に登録した。また,幼稚園の長女は,終園時間後にその幼稚園で行われる習い事に,月から金まで,ピアノ,英語,コンピューター,習字,読み書き計算など,19:00ごろまで通わせた。
埼玉県への転居が決まり,神奈川県の大学に常勤の教員として勤務することになった。大学院時代の先輩の伝手で,飯能市から約1時間半かけて通勤した。採用時,フレックスタイム制なので,授業・会議がなければ出勤時間は自由で良いと言われ,子育てとの両立も可能と考えたが,採用後,私は自分の考えの甘さに気づいた。19:00開始後2時間続く会議もあり,修士論文提出前は,年始の1/2から出勤した。求められる仕事に追いついていけない自分に焦りを感じていた私は,仕事との両立について,子育てをしながら勤務を続ける数少ない女性教員に,たまたま居合わせたエレベーターの中で質問をしたことがある。その時,彼女から「私は職場で家庭の話はしません」ときっぱりと言われ,驚きつつ,これが一般基準なのだと思い知った。その後は私も,質問されない限り,職場では家庭の話はしないことにした。
同時に,私は子供たちの授業参観にも学校の行事にも,出席するための努力を諦めた。この時期,子供たちには,随分と無理や我慢をさせたと思っている。例えば,長女が小学4年生の時,41℃に発熱している娘を1人自宅に残し,90分2コマの講義をするため,約6時間,仕事に出かけたことがある。その後,長女がこの体験を作文に書き,地方ラジオで朗読することになった。私は,長女の同級生の母親から「Yちゃんの作文,録音したからダビングしてあげますよ。黒田さんも大変ね」と言われ,その録音を聴いて初めて,娘の作文の内容も,ラジオで朗読したことも知った。大学の講義で,他者の健康とか,責任感とかいう話を学生にしている自分が本当に恥ずかしくなった。
その後,義母の体調の悪化をきっかけに,茨城に転居した。そのため,茨城から神奈川県の大学まで,片道3時間をかけて通うことになった。明け方4:50に自宅を出て始発に乗り,終電で帰宅すると1:30であった。通勤時間を削るため,片道100km,首都高速を通って自家用車で通勤したりもした。帰宅後,家族と顔を合わせることはなかったが,“自宅から通う”ということが,母親,妻として最低限の義務だと思った。しかし,転居後半年過ぎた頃,不正出血が続き,病院で検査を受けた。主治医に「治療が必要な疾患はないが,もう無理のできない年齢なのだから,心当たりがあるなら対処したほうがいい」と言われ,自宅近くの職場を探すことにした。しかし,41歳の自分の業績や専門に合致する自宅近くの大学教員の募集は見つからなかった。
当時私は,臨床に戻るなら在宅看護を経験したいと考えた。理由は,私の専門とする基礎看護学分野でも,在宅医療を見据えた教育を,という国の方針が出されたものの,在宅看護を実際に経験している基礎看護学分野の教員は非常に少なかったからである。最終的に,自宅から車で15分の訪問看護ステーションに就職し,私はそこで一番できない新人訪問看護師になった。その地域もわからない,約120件の訪問先の場所も,行うケアもわからない,一つ一つ教わらないと何もできなかった。それまで大学の准教授として自分の専門を語り,どちらかというと組織を動かす立場にあった自分が,黙って多くの人に頭を下げて教わる立場になった。6ヶ月ほど経って,対応困難と言われるケースの担当を任されるようになり,直接,責任をもって,看護を工夫しながら関わることにやりがいを感じる一方で,学会等で,教育・研究の分野で活躍する学生時代の同期の名前を見つけると,自分の不甲斐なさを見せつけられるような思いもして,同窓会に出席することが辛くなった。
訪問看護師として3年が過ぎた頃,訪問看護ステーションが併設されていた病院の教育専従看護師となった。前任者のいないポストで,看護部の職員への研修の企画・運営,看護学生への臨地実習指導,中・高生対象の職場体験等の企画・運営が私の仕事になった。
訪問看護ステーションでの送別会の席で,当時の病院長から「あんた訪問看護師,何年やったんだ?」と聞かれ,「3年です」と答えた時,病院長から「よく3年も我慢したな」と言われ,救われた気持ちになったことを今でも覚えている。この病院長は,在宅医療部門を開設し,病院長就任後も往診を継続されていた。利用者の方々から絶大な信頼を寄せられており,どの利用者の方々も主治医を続けてほしいと譲らなかった。私は,その時,人の気持ちに寄り添うには,多くを語る必要はないのだ,本当にわかって欲しい相手の気持ちを理解していることを表現できる一言があるのだと,言われる立場になって知った。
話は尽きないが,私にとって,子育てをしながらの勤務は,「こんなはずではなかった」と思うことばかりであった。しかし,改めて振り返ると,大学院生時代に古本屋で見つけた河合氏の本の一節にある「人間を成長せしめるものは学校による訓導ではない、人生における悪戦苦闘である」という表現が,まとめに一番ふさわしいように思う。子育ても仕事も,自分の思うようにはいかない。それら両方を継続するということ自体,“人間の成長”という点で,意義のあることだと思っている。
河合榮治郎:河合榮治郎全集第14巻 学生に与う、社会思想社、5-274、1967.
看護学部 生命看護学部門 准教授 古橋 知子
■長い前置き突然に本原稿執筆依頼が届き、直ぐにこれは2022年4月に就任したダイバーシティ推進室員としての務めの一つであると理解しました。しかし頭ではそれを理解しながらも、なかなか執筆に着手できませんでした。長らくワーカホリックから抜け出せずにきたことを自覚する者が「ワーク・ライフ・バランスの観点からのアドバイス」だなんて、滅相もありません。依頼文中の「ロールモデル(将来において目指したいと思われるような規範となる存在)」という言葉が心に重くのしかかり、防衛機制が発動します。頭に浮かぶ「反面教師」と「ロールモデル」という言葉の関係を探ってみると、反面教師には「反ロールモデル」や「逆ロールモデル」、「アンチロールモデル」という説明が付与されたものが散見されました。そのようななか、「反面教師もロールモデルの要素」という見解を目にした時に、少しだけ手がかりを見つけることができました。
平成24年度厚生労働省委託事業「女性社員の活躍を推進するためのメンター制度導入・ロールモデル普及マニュアル」(https://www.mhlw.go.jp/topics/koyoukintou/2013/03/07-01.html)には、ロールモデルは1人である必要はなく、また全てを模範とする必要はないこと。自分がそうありたいと考える目標ごとにロールモデルを設定し、色々な人の良い点から学ぶという姿勢をもつことの大切さが記されていました。さらにロールモデル設定例の図(P.19)を参照し、自分は【ワーク・ライフ・バランス面】では全く規範とはならないと断言できます。かろうじて【キャリア面】に例示される「スペシャリスト」としての歩みだけは執筆できるかもしれないと、ようやく思いを定め、執筆の覚悟をもつことができました。
■スペシャリストとしての歩み
特定の看護領域を持たず、幅広い知識と技術を身につけ、どのような対象に対しても看護独自の機能を発揮できるジェネラリストが育成されてきた日本の看護界に、1994年スペシャリスト制度が導入されました。それは自分が大学を卒業し、看護師として働き始めた年の出来事でありました。看護界にとっての大きな変革を身近に感じられる場とタイミングで、看護基礎教育を受けられていた幸せを、当時は認識できていなかったと思います。海外にてCNS(Clinical Nurse Specialist)教育を受けた教員や、のちに日本において専門看護師(Certified Nurse Specialist)の先駆者として活躍することになる方々など、看護基礎教育の段階から沢山のロールモデルとの出会いに恵まれてもいました。こうして振り返ると「スペシャリスト」としてキャリアを積む道へと導かれたのは、必然だったのかもしれません。
さらに幸運は続き、希望であった小児病棟に“新人看護師8名の一人”として配属していただきました。身体的にも精神的にも過酷な現場ではありましたが、そこで抱いた苦悩や疑問、倫理的葛藤などが、大学院のCNSコースで小児看護学領域を専攻して学ぶという、先の選択へと結びついていったのだと感じています。 2005年に日本看護協会小児看護専門看護師の資格を取得し、生まれ育った福島県に戻ることを決意しました。2006年に福島県立医科大学に着任し、新設ポスト「身分は看護学部でCNS教育に従事し、仕事の8割は附属病院での組織横断的CNS活動」にチャレンジしてから、はや16年目を過ごしています。福島県初の専門看護師として外から組織に入り、附属病院と看護学部の両方において果たすべき役割をとらえ、そのための活動や環境を一から考えて確立し、試行錯誤を積み重ね続けた日々でした。今でもなお実践の場に立ち続けたいと思う気持ちは、常に新たな学びを子どもおよび家族から得ている実感と、過去に受けた「看護とは何なのか?」という問いに応える課題が残っているとの自覚に支えられています。
■メッセージ
本学は渡り廊下を通ってすぐに病院に行くことができ、医療系学部が揃っているということだけでも、大変恵まれた環境にあると思っています。学部や組織、職種や立場を超えたところにも、素晴らしいロールモデルや、同じ志をもつ人、仲間を見つけることができるということも、最近あらためて感じているところです。尊いご縁、良質なつながりを日々大切にしていきましょう。
保健科学部理学療法学科 講師 中野渡 達哉
私は2022年4月に本学へ着任したばかりで、しかも生まれも育ちも福島県外であるため、私自身が福島医大の先輩方をロールモデルとしている真っ最中です。これまでに、中学時代の修学旅行で会津に1泊、学部生時代の臨床実習で郡山に約2ヵ月、そして、福島競馬場に数回ほど程度しか福島県には訪れたことがなく、まだまだ新参者です。福島歴も福島医大歴も非常に浅いそんな私が、このタイミングでロールモデル集の寄稿依頼をいただきましたので、福島医大以外でのこれまでの仕事、大学院、子育て、留学などの紹介となりますことをご了承の上、参考にしていただければ幸いです。●周囲のサポートのおかげで大学院へ
私は2004年に山形県立保健医療大学を卒業後、仙台市内にある松田病院のリハビリテーション科で理学療法士として働いていました。大学生の頃から、将来、大学教員になることを漠然と志望していたので、何かのタイミングで大学院に進学することを常々考えていました。しかし、臨床の現場は診療業務、職員・学生教育、委員会活動、管理業務、研究と日々多くの仕事があり、さらに結婚・育児というライフイベントにも恵まれ、この生活の中に大学院が入り込む余地はないと思い込んでいました。ところが、就職5年目にして、職場と家族から心強い後押しがあり、働きながら大学院へ通うという一筋の光明が差したのでした。そうと決まったら受験合格を目指すだけなので、時間外の外来業務を免除してもらうなど職場の協力を得ながら、ファミレスや図書館で約10年ぶりの受験勉強に励みました。私の目標を理解し応援してくれる人の有難さ、時にはそんな周りのサポートに甘える柔順さが、人生において大事であることを実感させられました。
●仕事+大学院で“忙しくなる”よりも“世界が広がる”
無事、受験に合格し、2009年4月から東北大学大学院医学系研究科障害科学専攻へ入学することとなりました。もちろん常勤で働いたままでしたので、有給休暇や代休などをやりくりしながら、日中に開講の統計学、肉眼解剖実習、神経解剖実習などに出席し単位を取得しました。臨床に出た後に学び直したこれらの講義や実習は、ただただ楽しかったと今でも記憶しています。夕方以降や土日に設けられるセミナーや勉強会にもとにかく出席し、英語論文の読解や研究発表に少しずつ慣れていきました。私は社会人大学生だったので、いわゆる院生室に滞在する時間は短い方であったと思います。それでも院生室で所属病院以外の医師・理学療法士・作業療法士をはじめとする多くの院生や留学生との交流や議論は、とても有意義なものでした。時間的には忙しい状況のはずでしたが、生活に息詰まるような閉塞感はなく、大学院で様々な人に触れ合うことができたことで、むしろ物の見方や考え方が広がっていることに気づきました。まさに、多様性を知り、世界が広がったような感覚であったと覚えています。この頃には上の子は3歳、さらにもう一人家族が増えているのでした。
●大学院生から大学教員へ
博士前期課程が修了する2011年3月に、私は仙台市で東日本大震災に見舞われました。4月から後期課程が始まったわけですが、震災後のあの状況で社会人大学院生を続けることにしばらく葛藤がありました。そのような中でも、大学院内のスターター研究助成に採択されたり、修士論文の内容が英語論文として公表されたりと、研究活動の歯車は回り続け、幸いにも3年間で後期課程を修了し、学位を取得することができました。そして何よりも幸いなことに、後期課程修了1年前には、母校の山形県立保健医療大学で助教として働き始めることができていました。しかし、社会人大学生であった私は研究者として未成熟で、大学教員らしい仕事ができるまでに時間がかかってしまいました。5年目頃になってようやく、科研費が採択され、海外留学先も見つかるなど、大学教員としての道が開けてきました。 留学は、大学の在外研修制度を利用したものであったため、4カ月と比較的短期間で、子ども達は小学生、妻は常勤で働いていたこともあり、家族を置いて単身で留学することに(大学院生時代に続き、我が家族の頼もしさといったら!)。留学先の米国コロラド大学では、研究できるほどの期間はなかったので、理学療法関連の講義・実習や研究の見学・補助などを行う教育実習のようなスタイルで臨ませてもらいました。合間には語学学校、ホームレスシェルターでのボランティア、アメリカならではの週末の家族行事へ参加するなどして、とにかく英語で話す経験値を積むことに専念しました。もちろん4カ月間での英語力はたかが知れているのですが、それでも中学・高校で学んできた英語の知識を、実際の表現手段として頭の中でリフレーミングすることができました。
最後になりますが、大学教員としてまだ道半ばにも至っていない身であり、何とも着地点のない話になってしまいましたが、私のワークライフバランスを保つ秘訣は、「周囲の人や環境に恵まれたこと」であったとまとめたいと思います。ただラッキーなだけでは?と思われるかもしれませんが、その場その場で自分が為すべきことを為しておかないと、運良く巡ってきたチャンスを活かすことも実はできないものです。人事を尽くして天命を待つと、意外なところからパッと道が開けるものなのかもしれません。
保健科学部作業療法学科 講師 石川 陽子
実はキャリアについてあまり深く考えた経験がなく,ただ目の前のことをこなしてきたタイプです。明確に行きたいところがあって前進するのではなく,歩む中で「どっちかというとこっち?」と意志をもって流されながら,「最終的についたところが行きたかったところだろう」と進んできたライフデザインとして知っていただければと思います。<意志をもって流されること>
元々は医療人になりたいという思いではなく,人を理解したい・知りたい,そのために必要なことを学びたいと思って大学進学を考えていました。数ある大学・数ある学問の中から,ただ一つを選んでこれだけを目指す!という方もいらっしゃると思いますが,私は「したいこと」と「実際にできること(浪人はできない,この偏差値でいけそう,お金のかからない地元の国立大学,などなど)」との帳尻を合わせるべく,とにかく色々と調べました。結局,実は何なのかあまり知らなかった「作業療法」の道を選びました。当時は,人を理解することができれば学問はなんでもよかった。でも自分で見つけた,自分の心の琴線に触れた道です。キャリアデザインのスタートラインは随分とふんわりとしていましたが,今思えば,「したいこと」にはこだわりましたが「実現する方法」にはあまりこだわりがなかったのかもしれません。
結論として,私の「人を知りたい・理解したい」という気持ちと「作業療法」は随分マッチしました。流されたにしろ,「したいことをしたい」という意志は譲らなかったからだと思います。大学を辞めることも,進路変更をすることもなく,今も興味深く学び続けることができています。ただ,職業人としての「理想の作業療法士,働き方,生き方」を具体的に考えずにキャリアをスタートさせたことで,随分と途中で悩みも多かったのが正直なところです。仕事のこと,仕事以外のこと,目の前に分かれ道が現れてからその都度悩み,最良と思う側の道を選び,進んできました.時間がかかっても,最初から自分の目指したい具体的なあり方を明確にしていれば,キャリアの方向性について悩む時間も少なかったかもしれません。
しかし,さまざまな経験を経て今思うのは,「自分の理想的な職業人,働き方」をあまり具体的ではない形に留めおいたからこそ,理想と現実のギャップに苦しみすぎずに,今も働き続けていられるのかもしれないということです。世の中には自分では抗えない出来事も多くあり,思った通りに進めないこともたくさんあります。そんな時,絶対に行きたくない方向にはいかないことが重要ですが,ある程度流されてしまいながらすすむのも,長く働き続けるには必要なことかと考えています。
<常に前進していると感じること>
ライフイベント上,自分の考えだけでは時間を調整できない瞬間は必ずあります。そんなとき,どうしても取り残されたような,進めていないような感覚に襲われました。そのような中で,停滞していない,毎日何かを得ていると認識することが私にとって重要でした。
私の場合は,イベントそのものではなく経験している感情に焦点をあてることがヒントとなりました。これまでの人生の中で起こったイベントは語り尽くせませんが,それぞれのイベントにはそれぞれ感情が伴います。経験したことのないくらいの喜び,これ以上ないと思うほどの悲しみ,うまくできなくて自分の能力を恨んだり,人のために尽くしたり,やろうとしたことをついサボってしまって自分に自分で言い訳をしたり,様々な感情の経験が常にありました。
「作業療法」に関わらず,「対象者中心の医療」では,唯一の存在であるその人を理解することが必要です。医療者としての私の目の前にいるその人が,これまで何を経験してどのように感じ,現在のその人として存在しているのかを理解すること。ひょっとすると,私が今こうやって経験しているこのイベントやそれに伴う感情は,全く同じではないにしても,少しでも対象者も感じてきた・感じていることかもしれない。私の全ての経験は,いつか出会う対象者を理解することにつながるかもしれないと感じたことが,自分は日々停滞しているわけではない,前進していると感じられるきっかけとなりました。
これはあくまで私個人の経験です。皆様のこれまでの経験から,より自分らしいライフスタイルを構築されていると思います。しかし,もし迷った時には,私を含め,多くのロールモデルに出会い,何かヒントが得られますようお祈りしています。
看護師特定行為研修センター 教授 見城 明
私は、平成4年(1992)に本学を卒業し、医師となり30年が経過しました。医師としての活動が継続できているのは、多くの方々のご指導・ご支援のおかげであると感じております。医師になってからの30年間を振り返ると、社会環境は大きく変化してきました。高齢者数の増加に伴い医療における業務量の増加が顕著となり、医療の高度化・専門分化がより一層進むとともに、政策として医療者の働き方改革が施行され、労働者としてワークライフバランスを意識しつつ、将来的に持続可能な医療提供体制をいかに構築するかが課題となっています。時代の変化に対応し、医療者として活躍するためには、多職種がそれぞれの専門性を活かし、かつ協働することが重要であり、【チーム医療】がキーワードになると考えます。
私は、現在、肝胆膵・移植外科を専門としています。外科の講座に入局後、本学で臓器移植の診療を経験した後、2003年に生体肝移植のハイボリュームセンターである京都大学病院で短期の研修を経験させていただきました。症例数の多く、他施設からの医師を多く受け入れている施設で、同世代の移植医と一緒に診療できたことはとても有意義でした。一方、医師が担う業務に関しては、薬剤調整や時間外での薬剤の搬送などは医師が担う業務であり、本学とほぼ同じかむしろ多かったのではないか感じました。
続いて、2007年に米国のウィスコンシン大学移植外科で研修する機会をいただきました。移植手術の場合は定時外での実施が多いのですが、周辺の業務はコーディネーターという職種の方が全てマネージメントしており、臓器摘出チーム、移植医の役割は明確でそれぞれの業務に集中できる体制でした。また、カンファレンスのみならず、日々の回診でも、医師(外科、内科)、看護師、薬剤師、栄養士、病棟事務などが一緒に情報共有や意見交換を行い、治療方針の決定後は、各職種の専門性を活かして介入していました。また、医師の業務を支援するPA(フィジシャンアシスタント)が存在し、移植外科医は、移植手術に専念できる環境が整っていました。そして、17時前には業務を終えて、気がつくと病棟には夜勤者のみとなっていました。米国と日本の医療者の働き方の違いはなぜ生じるのかを考えるとともに、医療をチームとして提供する体制の一例を学ばせていただく貴重な機会となりました。
本邦ではその当時、医師の過労死や業務過多に伴う患者死亡につながる医療事故の報告が散見されており、医療提供体制に対する不安が社会問題とされていました。それを受けて、将来的に質の高い医療を提供するため、2009年に医療における規制改革が閣議決定されたとお聞きしています。医療における規制改革に関する検討の結果、各医療者の専門性を活かし業務範囲の見直しを図り、相互に連携をとりながら医療を提供すること、「チーム医療」の重要性が示され、2015年に看護師の特定行為研修制度が創設されました。特定行為研修制度では、看護師には医師の業務の一部をシェアすることと各医療職種との連携を担う役割が求められています。
本学では、福島県の医療環境(高い高齢化率、医師不足・偏在)を考慮し、地域包括ケアシステムの構築、医療の質の向上を目的に県内での特定行為研修の実施が必要であると判断し、2017年に看護師特定行為研修センターを開設しました。私は、本学での研修開始と同時に研修に係り、2021年度末までに110名の受講者と関わってきました。研修を受講した看護師は、臨床経験豊富な方がほとんどであり、所属施設において協働する医師や他職種の医療者とのコミュニケーションが良好で、研修の目的が明確です。所属施設での理解が進み、研修終了後に活動の幅を広げている方もおられますが、一方では、施設内での理解不足や勤務調整が困難で活動が制限されている研修修了者も多いと伺っています。
一方、医師の働き方改革の関連法が、2024年より施行されます。医師も業務の見直しを図り、継続して質の高い医療を提供するための組織の変革が求められています。そのためには医療機関の特性を把握し、必要な人材を育成し、各職種の専門性を理解し協働する「チーム医療」の実践が不可欠です。特定行為研修を終えた看護師の活用もその一つであり、ダイバーシティ&インクルージョン(D & I) −多様な価値観を認め合い、それを受け入れて個人の特性と能力を発揮しうる環境整備と仕事と生活の調和を実現すること−に通ずると考えます。
自身のキャリアを活かす環境を作るには、他職種とうまく協働することが欠かせません。組織の意識改革が重要ですが、是非とも個人が当事者となり、D & Iへの理解を深めてみてください。
会津医療センター 血液内科学講座 教授 大田 雅嗣
●高校時代,生命現象の神秘性に惹かれたことから漠然と医師になりたいと考えるようになりました。母親が広島での被爆者であったことも意識の中にあったのかもしれません。北海道大学では全学の文化団体の一つである北大交響楽団に入り,ヴィオラを担当,合奏の楽しみさを味わうことができました。いろいろな学部の人間と付き合うことができ,今でも親交があるのはその時の仲間で,多様なものの考え方に接することができたのは大きな収穫でした。楽器の練習が忙しく学部の成績は下から数えて何番という状況でありましたが,在学中,神経症候学に興味を持ち,神経内科の医局に出入りし,関連病院の回診にもついていくようになりました。卒後は神経内科医になるつもりで相談したところ,きちんと内科全体を学んでこいと助言されました。当時大学附属病院にはナンバー内科が3つありましたが,それぞれ縄張り意識が強く,系統だった研修ができないと判断し,先輩の勧めもあり,1979年6月から研修プログラムが充実していた自治医科大学附属病院で初期研修をスタートしました。内科各科を回るうちに内科学の内容に対する興味が変わってきました。それは当時血液学教授だった故髙久史麿先生との出会いがきっかけでした。医局の錚々たる先輩医師の指導もさることながら,血液内科学の学問としての面白さ,顕微鏡で眺める血球の美しさ,分子生物学,分子遺伝学を駆使しての診断のプロセスに惹かれるようになり,また血液がんの患者さんの治療に寄り添う大切さを実感し,2年間の初期研修が終わった時,血液内科医になることを決断しました。母校と自治医大の神経内科には大変迷惑をかけましたが,血液内科への転向を快く許していただきました。●血液内科の臨床とともに,血液医学研究部門にも所属し,造血幹細胞,白血病幹細胞の増殖・分化を研究テーマとしました。縁があり米国マサチューセッツ州立大学医学部に留学する機会があり,1986年4月から約2年間ボストンに住むことになりました。研究室では効率よく仕事をすることができました。研究者も実験補助者も午後5時になると”See you tomorrow!” と言って帰宅する人が多く,すでにワークライフバランスが確立されていました。夜遅くまで仕事をしているのは日本人研究者だけだと言われました。恵まれた環境の中,2年間でいくつか論文を発表することができました。また様々な人種のスタッフとの付き合いの中で多様性を尊重する雰囲気が身についたと思います。ボストンでの生活は楽しく,当時小澤征爾が指揮するボストン交響楽団の演奏会には足繁く通いました。異国での生活は自分が持っている様々な硬直化した価値観を見直す良い機会となりました。また妻もボストンで研究する機会に恵まれ,現地で初めて生まれた長女を二人で育てたこともすばらしい思い出です。仕事が終わると妻の勤めている研究所に迎えに行き,中国系アメリカ人のベビーシッターさんのところで子供を受け取るという生活がしばらく続きました。
●帰国後,数年経ってから母校の癌研究施設で働くことになり,血液内科の臨床も続けたいので担当医局長に会いに行きましたが,卒業後一日も大学の医局に在籍していないとの理由で門前払いをされました。懐の狭い古い体質が依然として続いていたのにはがっかりしました。職場の上司との関係がうまくいかず,3年で東京に戻ることになったのですが,就職先を紹介してくれたのは自治医大時代の指導医の先生でした。人生いろいろと壁にぶつかることがありますが,困った時誰かが助けてくれるものだと実感しました。
●東京都健康長寿医療センターで1998年7月から血液内科の臨床を再開し8年経ったところで副院長という管理職になりました。医療安全担当でかなり苦労しました。自分の役割は患者を診ることだとの思いが募ってきた時,会津医療センターの元病院長だった自治医大出身の鈴木啓二先生から連絡があり,新たな病院作りを始めるにあたって,会津には血液内科医が一人もいないので来て欲しいと要請され,2010年2月に生まれて初めて磐越西線に乗って会津若松を訪問しました。旧県立会津総合病院の事務,看護,薬剤,検査,放射線,栄養の各部門と血液内科立ち上げの打ち合わせをさせてもらいました。2ヶ月後の4月に赴任し,会津医療センター準備室職員として多くのスタッフの協力のもと血液内科の診療を立ち上げることができ,2013年5月新病院に移りました。光が丘の血液内科学の先生のご支援にも感謝しております。早いもので診療科設置から12年が経過し,会津圏の血液疾患を一手に引き受けてきた自負がありますが,今後は世代交代を円滑に行っていくことになります。また会津に来て地域医療の重要性,多くの問題点を認識することができました。
●2024年3月には職を辞することになりますが,長きにわたり付き合ってきた血液疾患の患者さんともうしばらくご一緒したいと考えています。自分の医師としてのキャリアを支えてくれたのは髙久先生を始めとした自治医大時代に指導していただいた先生であり,キャリアの節目節目での人との出会いが自分を育ててくれたものと感謝しています。また県立医大の理事長を始め,会津医療センター担当理事.諸先生のご支援に心より感謝いたします。 会津の人との関わり合いを持ちながら,会津の山々,日本酒,食を楽しみたいと思います。
令和3年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
疫学講座 教授 大平 哲也
私は本学を1990年(平成2年)に卒業しました。学生時代は躰道部、陸上部、スキー部、シーズンスポーツ同好会(ジャストフィット)、医系学生の会等に所属していたため、ほぼ毎日部活動に明け暮れていました(なので、成績はかなり悪かったです)。当然のように毎年再試験を受けまくり、3年生時にはストレス性の十二指腸潰瘍も経験しました。そのことが、私が心身医学に目を向けるきっかけになったのです。卒業後は心療内科医になることを目指して、当時としては珍しく大学ではなく、総合会津中央病院池見記念心身医学センターに就職しました。そして、それが私の流浪生活の始まりでした。●流浪生活の始まり
私はいわき市の出身で、本学卒業後は福島県内での医療活動を希望し、県内の病院に就職したわけです。ところが、勤務して半年後、私のボスが浜松医大に転勤することになったのです。自分の人生の中で箱根の山を越えて西に行くことは全く想像していませんでしたが、浜松医大についていく決断をしました。ところが、浜松医大の心療内科は外来のみであり、私は第二内科に所属しながら外来で心療内科のお手伝いをするという生活になったのです(結構肩身が狭かった)。その後派遣された共立菊川総合病院内科での勤務が人生を大きく変えるきっかけになりました。
●予防医学に目覚める
共立菊川総合病院は地域の中核病院ではありましたが、病床数が300床程度の中規模病院でしたので、全科当直でした。そこで多くの脳卒中等の急性疾患を診ていく中で、発症した患者さんの予防に対する意識の低さに気が付きました。ほとんどの患者さんは高血圧や糖尿病等の危険因子を持って発症していましたが、自分がどの程度脳卒中のリスクがあるのかに無関心だったのです。そのため、患者教育が大事と考え、日々外来で予防の大切さを伝えましたが、外来でできることには限界がありました。次第に地域全体の予防活動の必要性を感じるようになりました。また、統計知識が全くなかった自分を見かねて「やさしい疫学」をとりあえず読め!と先輩に叱咤されたことが疫学に触れる機会になったのです。
●初めての論文は卒後11年目
予防医学の実践のために、卒後6年目に筑波大学社会医学系地域医療学教室に大学院生として入学し、地域住民における循環器疾患登録と予防活動、そして循環器疾患の心理社会的危険因子の研究を始めました。無事学位を取得して初めて英文原著論文を公表したのが2000年、卒後11年目のことでした。後輩諸君に言いたいのは、「研究は何歳から始めても遅すぎることはない」、ということですが、その一方でもうちょっと早くリサーチマインドを持ち合わせたらよかったんじゃないかという反省もあります。なので、医学部生の頃から何らかの研究に触れて頂きたいということも付け加えておきます。その頃浜松医大のボスが病に倒れ、私は帰る場所を失くしていましたが、筑波大学の教授の勧めで大阪府立成人病センター、及び大阪府立健康科学センターで勤務することになりました。
●退路を断って米国へ
30歳代後半となり、海外で研究をしてみたいと思ったのですが、多くの海外渡航助成金には年齢制限があり、かろうじて上原記念生命科学財団に申請することができました。奇跡的に申請が通りミネソタ大学での研究をスタートさせることができたのです。ところが、ミネソタ大学に行く際には当初大阪府の休職制度を利用していく予定でしたが、応援してくれていたはずのセンター長がなぜか渡航直前に反対に転じたのです。そのため、ブチ切れた私は退職し、日本には戻らない覚悟で米国に行くことになりました。ミネソタ大学での研究生活は収入が少ないことを除けばまさに理想的な生活で、研究が加速しました。ちなみに、ミネソタ大学では公衆衛生学部の一分野である疫学部門が本校の災害医学・医療産業棟くらいのビルディングを持っており、教員、スタッフだけで300人以上が働いています。わが国との規模の違いに驚きました。ミネソタ大学での約2年間で複数のプロジェクトに研究テーマを申請し、Stroke、Br J Haematol、Cancer、Am J Epidemiolなど異なるジャンルのジャーナルに10本の論文を筆頭著者として公表できたので、自分としては日本にいるときの5倍くらい研究が加速した感じがしました(もっとも論文完成までには時間を要したので2年間で全て公表できたわけではないし、実のところ12本申請していて、2本は時間切れで諦めてしまった)。
●卒後16年目で初めて教員に
ミネソタ大学で1年半が過ぎ米国でなんとかやっていけそうな気がしてきた矢先、筑波大学の恩師である磯博康先生が阪大の教授になり、日本に戻ってこないかと声がかかりました。正直悩みましたが、日本に戻る決心をして、初めての教員生活を阪大でスタートさせました。この時点で卒後16年以上が過ぎていました。阪大では6年半過ごし(当時、自分人生の中で一番長くいた場所になりました)、縁あって本学に勤務することになったのが2013年2月ですので、卒後23年近く経って初めて母校で働くことになったのです。
●後輩に伝えたいこと
学生時代臨床にしか興味がなかった自分が、気が付けば社会医学に長く携わることになりました。人生何が起こるかわかりません。学部生に伝えたいのは(というか、学生の時の自分に伝えたい)、まず英語は学部生の時からしっかり勉強しておくということ(卒後頑張ったがいまだに苦手)、また、暗記ではなく自分で考えるくせをつけること、それにはMD_PhDコースのように研究に触れる機会をできるだけ有効に利用してほしいです。正直医学部生の時の授業はほとんど覚えていないが、実習等で自分で調べて発表したことは今も覚えています。そして同級生との繋がりを大事にしてください。卒業してからも同級生のありがたみを感じる機会が多数あるはずです。
神経精神医学講座 准教授 三浦 至
私は2000年3月に山形大学を卒業し,同年4月から福島医大の神経精神医学講座に入局し,現在まで精神科医として仕事をしています.学生時代野球ばかりしていた私は,入局当初自分のキャリア形成について考えたことはほとんどなく,何とか一人前の精神科医になることだけを考えていました.大学病院での研修ののち郡山にある精神科病院で8年間常勤として勤務し,その間週1日の研究日をもらって大学院研究生として大学で研究する機会をいただきました.研究と言っても当初は何をして良いかもよくわからず惰眠を貪っていましたが,厳しくも温かい先輩方にダメ出しや叱咤激励をもらい(ときどき心折れそうになり)ながら,刺激の多い病院で下っ端として仕事を続けるうちに次第に臨床疑問や研究のアイデアが出るようになりました.病院で患者さんに採血の協力をいただき,研究日にその検体を用いて大学で実験や解析を行うという臨床研究のスタイルを確立しましたが,この研究日の制度は本当にありがたかったと今でも感じています.研究が何とか形になり学会発表や学位論文化を行い学会賞までいただき,研究デザインから論文化まで主体的に行えたという点で非常に充実したものでした.今思えば研究テーマやその実行など随分自由にやらせていただき,当時の講座の先生方が寛容に支援して下さったことに大変感謝しています.2011年の震災後に大学に戻り,その後幸いにも留学の機会をいただき2013年から1年間,米国ニューヨークのZucker Hillside Hospitalに研究留学しました.留学中は思うようにいかないことも多くありましたが,圧倒的なエネルギーを持つドイツ人ボスの指導により論文を出すことが出来,その包括的・俯瞰的なものの考え方は今でも研究の参考になっています.留学は妻と2人の子どもとともに一家4人での渡米で,妻は医師としての仕事を1年間離れ,小さな子を連れての米国生活は慣れないことも多く苦労もありましたが,家族4人で様々な体験を通して本当に貴重な時間を過ごすことが出来ました.帰国してだいぶ時間が経ちますが,留学当時のことは未だに家族で振り返っています.また留学中に家族と過ごす時間が増えたことで,帰国後は出来るだけ仕事と家庭の時間のメリハリをつけるようにもなりました.帰国後の仕事は神経精神医学講座に戻り,現在まで研究・教育・臨床の業務を行いつつ,学会の委員会やプロジェクトに携わることも増えました.中でも統合失調症の薬物治療ガイドライン・治療アルゴリズムの作成にメンバーとして加わり,これまでの臨床・研究両面での経験を生かすとともに,他大学の多くの先生方と知り合い議論したことはとても有意義でした.そのようなわけで私が医師になった時の志は決して高いものではありませんでしたが,精神科病院の臨床に根付いたリアルワールド研究に始まり,エビデンスの創出,それに基づく治療ガイドライン・アルゴリズム作成まで幅を広げることが出来ました.忙しい臨床の中で研究を行うことはなかなか大変ですが,その臨床の中に多くのヒントがあるのだと思います.私の場合上記の研究日以外にも講座や勤務先の先輩方や多くのスタッフの協力,また妻や家族のバックアップをもらい,とても恵まれていたと思います.ワークライフバランスについてお話しできることはあまり多くありませんが,やはり周囲の理解と協力をうまく得ることが重要だと思います.妻が当直をやっていたときは私もたまに小さい長男を一人でみたこともありましたが,夜中に長男が泣き出し困って当直中の妻に電話するなど,育児の大変さを実感しました.仕事をしながら育児家事等の大変な業務を毎日やっている女性医師には本当に頭の下がる思いです.医師の役割は多彩で実際にも多くのことが求められますが,同時に非常に多くの可能性も秘めており,貢献の仕方も様々にあると思っています.私は精神科臨床と臨床研究の面白さに魅せられここまで続けていますが,様々な個性や強みを持った人が集まり,その特性や背景をお互いに尊重しながら様々な役割を果たしていくことが重要だと思います.そして,それを通して出会った人とのつながりは大きな財産になるのではないでしょうか.
麻酔科学講座 講師 佐藤 薫
私は石川県で生まれ育ち、国公立大学の2次試験の願書を提出する直前に福島医大の受験を決めました。それまでの他大学での受験面接で、女性でありながら医師として仕事をしていくことや結婚・出産について聞かれることに嫌悪感がありました。男女差別だと感じたからです。予想に反して、福島医大の面接では好きな本はなんですか?くらいの面接でした。入学してみると、同級生全体の女性の割合は3割で、多浪生もそれなりにおり、福島医大では性別や年齢で差別されることはないのだと感じました。最近のような臨床研修体制はなく、大学を卒業する時の進路はかなり迷いました。結局のところ、相談した同級生から「自分がやりたいことをするんだったら、やっぱり母校が一番」という言葉と、当時麻酔科の先輩からのお誘いもあり、麻酔科学講座に入局を決めました。
卒後4年目に結婚し、その翌年に長男を出産しました。その頃は大学病院に勤務していましたが、女性医師が妊娠・出産し仕事に復帰することに関心を持って見ていたわけではなく、給料のことや産休を始めとする保障について何も知りませんでした。当時の私の大学での身分では保障された産休育休期間がないと知ったのでとりあえず労働基準法を調べ、出産予定日の産前6週から仕事を休むことに決めました。無給になるため社会保険の変更も必要とされました。出産してから子育てしながらキャリアを継続させるためにどうするかを当時の麻酔科の医局長と相談し、臨床よりは研究の方が時間のコントロールがしやすいだろうと考え大学院に入り研究をすることにしました。そして、長男が生まれて6か月後に薬理学講座でお世話になることになりました。当時の薬理学講座には教授を始め、女性研究者が多く在籍されており、また男性の先生達も皆が育児の大変さのあれこれを話し相談できる環境でした。仕事に夢中になりすぎると子供目線の生活のあり方が抜け落ちてしまう私を引き戻してくれました。
第一子出産の2年後に第二子に恵まれ、その頃に夫のスウェーデンへの留学が決まりました。私はスウェーデンで子育てをしながら、自分も研究をしたいと強く思いました。夫と周りの方のご厚意もあり、私もスウェーデンの大学で研究する許可をいただきました。ところが、スウェーデンに行った頃は長男が1歳9か月、長女が生後6か月であり、スウェーデンの保育園の入所は1歳以上から可能だったため、長男を預けることはできても、長女の預け先がなくて途方にくれました。研究をするのを諦めかけた数か月後に、夫が週一回研究日をくれることになり、その日だけ私は研究をすることができるようになりました。また娘も1歳から保育園に通うことになり、スウェーデンでの研究は納得するまではできなかったもののなんとか形にすることはできました。
帰国後、薬理学講座で再び研究を継続し、なんとか4年で学位を取得することができました。多数の方からの支援があったのはもちろんですが、自分のやりたいことをあきらめずにぶつかっていったことで少しでも現状を打開できたことが自信となりました。
大学院修了後は、大学に入る前に漠然と心に抱いていた緩和医療が気になりました。麻酔科で緩和医療ができると知らずに入局したのですが、麻酔科の先輩が宮城県で緩和医療、在宅医療や神経ブロックを学んだあとに福島医大に戻ってきました。当時の日本では緩和医療は始まったばかりでどのようにして緩和医療専門の医師として研鑚していくかという定まった道もありませんでしたが、自分もその道に進みたいと強く思いました。麻酔科の教授からお許しをいただき現在まで約17年間、福島医大で緩和ケアチームの専従医師として仕事をさせていただいています。その間、長男と11歳離れて第三子に恵まれました。そのころには社会も職場環境も以前より、働くママへ優しくなったなと思いました。以前は妊婦健診へ妊婦一人で来るのが当たり前だったのに、夫婦そろってきている人たちの多さにもびっくりしました。働きながら家事や子育ての分担をしている若い医師たちの姿もあり、だれもが仕事をする生活者なのだという意識を強く感じます。福島県立医大でも支援する人や体制が整ってきていることを喜ばしく思います。
医師もまた生活者ではありますが、独り身でがむしゃらに仕事をしているときには気がつきにくく、結婚し子供ができてはじめて気がつくことが多いのではないでしょうか?医療は当然患者中心であるべきで、仕事が自分のコントロールに及ばないところもあり両立はなかなか難しいものです。それでもこうありたいと強く思う志を素直に表現し、そのためたくさんの人たちを巻き込みながら迷惑をかけることもあるかもしれないけれど、皆様には少しでも自由に自己実現に向かっていただきたいと思います。
総合科学教育研究センター 教授 後藤 あや
子どもがいくつになっても、「こういう時に他の人はどうしているのか」が気になります。子どもがオンライン授業になってずっと家にいる時、どうしたらいいのか。子どもが独り立ちしたら何かチャレンジしたいと思うけど、モチベーションをどう保って、どう準備しようか。日常のことから長期的な展望まで色々誰かに聞きたいことはあるけれど、そんなに細かく聞くのも気が引けますし、誰にいつしゃべりかけるかタイミングなども考えていると、結局はそもそも人によって事情や考え方が違うから聞いても…と、もやもやとしたまま時が過ぎていきます。この状況で、ロールモデル紹介の原稿依頼を受け取りました。子どもが乳幼児の時はこのような依頼をいただくと迷わず、日々の様子や工夫を書いたり話したりしてました。個人的なそんな時期も過ぎて、社会全体の時代も進んで、家庭の中の誰か、社会の中で特定の集団が頑張る構図を描くのは、少し違うと思うようになっています。そこで、少し調べました。
若手研究枠の科研費を取得した医師が対象の調査結果によると、ワークライフバランスの取れているメンターがいる人は、仕事面での燃え尽きの程度が低いそうです(BMC Med Educ 2020; 20: 178)。また、ロールモデルの提示は、医学生(Med Teach 2013;35:e1422-36)や看護学生(J Clin Nurs 2017; 26: 4707-4715)の職業意識の確立に有用とも言われています。McGill大学のCruessらは、メンターとロールモデルは異なり、メンターは学生に質問を投げかけたり助言を提供したりすることにより指導者として導き、ロールモデルは “inspire and teach by example, often while they are doing other things”と表現しています(BMJ 2008; 336)。このinspireというのは、狙ってできるものではないからとても難しいと思います。とりあえず、楽しんでいることや仕事のやりがいを書いてみます。
最近の日常で楽しいのは、成長した子どもとの会話です。コロナで家にいることも多く、たっぷり話せています。宿題や授業の様子を覗くのも中々面白いです。研究については、大学院の頃からデータ分析や論文執筆がとにかく楽しくて、子どもが小さいときには「ママだけ時間制限なくゲームしてる!」と怒られました。社会医学系専門医としての地域での仕事は、自治体の受動喫煙防止条例の作成、健康情報を分かりやすく伝えるヘルスリテラシー研修会の実施、母子保健事業の評価など様々ありますが、与えられた役割には一つ一つできるだけ丁寧に取り組むことを心がけてます。あまり得意でない仕事の時は事前に勉強が必要になりますが、それがまた新しい発見や次の仕事につながります。国際保健の研究は渡航できないので厳しい状況ですが、出張がない間にできることを進めてます。例えば、アジア3か国の小学校での健康教育は、教材づくりやネットワークの構築などをしています。時差の調整が大変ですが、日替わりで違う国の人達とオンラインで打ち合わせができる最近は、とても便利です。ちょっと旅行した気分にもなれます。
最後になりましたが、原稿や講演依頼の際に提出しているプロフィールです。「山形大学医学部卒、ハーバード公衆衛生大学院で公衆衛生修士、山形大学で医学博士を取得。ポピュレーションカウンシル・ベトナム支部勤務(11か月)、2002-16年福島県立医科大学公衆衛生学講座、2012-13年ハーバード公衆衛生大学院武見フェロー(10か月)を経て、2016年より現職。専門分野は、家族計画、育児支援、ヘルスリテラシー、国際保健。」その時々の私なりに考えて、進学や異動をしてきました。素晴らしいメンターやロールモデル、仲間にも恵まれました。子どもの頃を含めるとこれまでにアメリカに3回滞在して、博士課程修了後はベトナムでも働いて、そういった海外での経験が特に自分のモチベーションにつながっているように感じます。修士課程の時に家族で留学しているクラスメートの様子をみて私も次は!と思い、10年後に実現できたのは良い思い出です。最後のアメリカ生活からそろそろ10年です。また自分なりのチャレンジを模索中です。
この原稿のお題は、「後輩へ伝えたいこと」でした。もやもやした気持ちで書き始めましたが、振り返ってつらつらと書き出すだけでもモチベーションの再発見になりました。皆様も是非、日常生活の楽しみ、仕事のやりがい、将来的な展望など、自分なりのモチベーションの源を大事にしてください。
研究室のホームページ
https://aya-goto.squarespace.com/
医学部附属実験動物研究施設 教授 関口 美穂
私は、本学を卒業後に整形外科学講座に入局し、2012年から附属実験動物研究施設で仕事をしています。また、3姉妹の母親としての役割もあります。社会情勢からか、仕事と家庭の両立はどのようにしてきたのかと聞かれることが増えていますが、思い起こしてもその日暮らしで、毎日バタバタと必死にこなしてきた感じです。多くの方々から頂戴した言葉が、私を前向きに進むことの後押しとなったことは間違いありません。ここではそれをお伝えし、様々な立場に置かれている皆様のキーワードとして参考になればと思います。進路の選択は、仕事の大変や目の前にある環境ではなく、自分が真にやりたい進路を自分の意思で選択することが重要です。何を選択しても大変だと思う時が必ずあるので、自分でやりたいと決めた進路であれば、大変な時に乗り越えることができると信じています。
入局2年目に、「なぜ国際学会に行かないのだ。」と上司に言われ、国内の学会での参加歴も少なく、地方会で症例報告をしたレベルでしたが、国際学会に参加し国も言葉も違う先生が集い、英語という共通言語でディスカッションをしたり、休憩時間や懇親会で積極的に情報交換をする姿はすべてが衝撃でした。この経験がリサーチマインドが芽生えたタイミングだったと思います。いつか自分がこのような国際会議で発表することがあるのかもしれないと漠然と感じつつ、いや、無理だろうから自分は発表しないで学会には参加していきたいと思いました。ついに大学院生の時に、研究成果を国際学会で発表する機会が来ました。初めての発表は、ポスター発表を希望していたにも関わらず、英語での口演で採択され(光栄なことなのですが)、「どうしよう」と叫んだことを覚えています。その時の指導教官には、「まずは、自分たちの結果をきちんと理解してもらえるように発表することを目指せば良い」というアドバイスを頂きました。スライドと発表原稿を何度も校閲してもらい、ネイティブに英語の発音のチェックと音読を録音してもらい、何度も繰り返し発表の練習をしました。英語力がないレベルなのに、なぜ調子に乗って演題を出してしまったのだろうと思いながらも、引き返せない状況で真剣に準備を重ねていた時に、「国際学会に行くのは、海外旅行だよね」と言われてショックでした。このような発言をするということは、学会参加の位置付けが旅行気分で、それ以上の収穫を得ることはできない人なのだと残念に思いましたと同時に、自分は能力の最大限を出して発表しようと心に誓いました。
学位取得後に、カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究室に留学の機会をいただきました。夫が単身でこのラボにて研究をしていたところに、当時はまだ娘が2人でしたが、娘を連れて合流しました。夫と同じラボであっても、私も一研究者として研究活動ができるように、上司がお願いをしてくれていました。幼稚園や学校への手続きで、ラボにはいつ行けるのかと焦りがありましたが、「家族が安定して生活ができることを優先して、それができてから、仕事を始めれば良い」と言っていただき、心配が小さくなり、またラボで仕事を開始できた時には本当に嬉しい思いでした。ボスは、経験の浅い私のデータをみて、「我々は、結果に正直であるべきだ」と信用して、研究に対する姿勢を示してくださり、心から尊敬しています。幼稚園や学校からお迎えした娘をラボに連れていき、実験をしたこともありました。「ラボでしかできない仕事を優先し、論文を読むとか家でもできることはラボにいなくても良い」とも言って頂き、有効に時間を使うことを学びました。それから今でも働く時間の長さではなく、質を高めることに心がけています。留学時代は随分前のことになってしまいましたが、今でも当時の記憶は鮮明で、家族の貴重な時間だったと思います。皆様もぜひ、広い視野での活動を選択して、多くの人に出会っていただきたいと思います。
帰国後は、自分の研究と後輩の研究の指導も任されるようになりました。指導で苦労することもあり、自分が指導していただいていた時もきっと上司も苦労していたのだと思います。「環境や忙しいことを言い訳にしない。」と「はいと言ってやってみる」という助言を受けました。こんなに恵まれない環境では何もできないと愚痴る人は、環境が整っても結局は何もやらないのです。それを意識して周囲で成果を上げている人を見ると、何がやれるのかを考え、少しでも前進することに努め、忙しいはずなのに忙しそうに見えない、ということが見えてきました。仕事面でもそうですし、思い通りにならないことばかりの育児においても同じことと思います。また、「はい、と言ってやってみる」と、思わぬ視界が開け、異なる分野にも共通点があり、相互に役に立つことがあるということに気付かされました。権利や待遇を主張する前に、自分の能力の120%を出す気持ちで常にベストを尽くし、周囲に感謝することで応援してくれる人が現れたり、道が開けることがあると思います。
ぜひ、前向きにがんばってください。
令和2年度 ロールモデル集 ~福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと~
病態制御薬理医学講座 准教授 前島 裕子
私はこれまで農学分野において学位を取得し、基礎研究の立場からずっと研究を続けてきました。修士を取得した時に就職しようと少しだけ就職活動を行いましたが、ふと私も「論文」というものを書いてみたいと思い博士課程に進むことにしました。博士課程に入って論文を書いてみるとすごく楽しくなってしまい、3本の論文を3年間で出しました。
学位取得後ポストドクターとして自治医大の生理学講座で雇っていただき、一年で運よく助教にしていただくことができました。今から20年前ですとポストドクターがあふれかえっておりなかなか正規のポストに就くのは大変難しいところを助教というポストをいただき、少しでも雇用していただいた大学・教授に恩返しがしたいという思いで、教育も研究も昼夜問わず必死で働き業績を出しました。
8年間自治医大でポストドクターと助教を務めたところで、縁あって福島医大で採用していただき現在に至ります。
学位を取得して研究者として大学で十数年研究を続けさせていただいていますが、私が今回福島医大の後輩へ伝えたいことはただ一つ基礎であれ、臨床であれ「プロ意識を持ってください」ということです。これは私たち大学にいる人間だけに言えることではなく、社会全体の若い人達に私が言いたいことです。どんな職業であれ、その仕事で生計を立てるならプロ意識をもって当然です。「プロ」であるというプライドを持ってほしいと思います。
では研究者のプロ意識とは何か?ということですが私が考えるのは研究者ならば論文を出版することへの限りない執着だと思います。たとえばポスドク、助教であればもらった研究テーマにおいて、出したデータすべてを論文にするくらいの熱意と執着。自分でテーマを考えられるようになれば常にアンテナを張って少しでも自分の研究の質、インパクト、社会気意義を向上させることを考えること。私は自分の出したデータ、論文はすべて自分の子供だと思っています。だから投稿するときには少しでも条件のよい嫁ぎ先(科学雑誌)を精査し、リバイスがかかれば全力を投資してアクセプトまで持っていきます。研究をしても出版しなければ使った試薬、動物、時間、研究にかかわった人の労力と時間、すべてが無駄になります。なぜならその結果は正式な形で公表されないからです。
現在日本の科学雑誌への論文出版数が先進国の中で年々減少しています。私は、これは大変危機的事態だと考えています。大学の雑務や教育が増えたのが原因ともいわれていますが、これは理由にならないと思います。私は研究者の個々のモチベーションの問題だと思います。
現在日本においては「ワークライフバランス」の重要性が叫ばれています。基礎研究者には適応外だと思います。なぜなら研究者にとって研究はやりたいからやるもので勤務時間を意識していたら、研究は進まないと考えているからです。基礎研究をこれから志す方は少なからず何かしらの生命現象のメカニズムや社会に役立つ何かを開発したい気持ちがあるからではないでしょうか?その気持ちは研究者において非常に重要なモチベーションとなります。研究を続けていると、途中で必ず壁が立ちはだかります。正直「もーやだ。これ辞めたい」と思うこともしばしばです。しかし、「本当のことが知りたい!」「わくわくする!」というたったこれだけの感情が研究を支えるモチベーションになると私は思います。
先にお話しした日本の論文出版数の低下は、この気持ちが日本の研究者で低下している現れだと思い危機感を感じています。これから基礎研究者を目指そうとする方にはぜひ覚悟と情熱をもって一歩を踏み出してほしいと切に願っています。
ここからは特に基礎研究者を目指す女性へのメッセージになりますが、現在女性教員比率の向上という政策が叫ばれていると思います。私も男女共同参画の支援員としてどうしたらよいかをずっと考えてきましたが、結論として基礎研究の世界ではやはり論文を出すことしかないのでは?と思っています。論文がないと女性教員比率を引き上げようにも引き上げられないのです。
しかし、女性には出産適齢期があり、家庭を持てば家事・育児は避けられません。そこをどうするかです。現在男女共同参画支援室では研究支援員制度がありますが、その制度を使うのも一つの手ですが、ここはぜひ家事代行やベビーシッター制度を上手に使ってはと思います。私の持論ですが、研究を遂行するにはある程度まとまった静かな時間が必要です。例えば休日の午後お願いすれば午後丸まる研究に費やせます。私は研究を続けてきて論文出版までには相当な時間とエネルギーとやり遂げる信念が必要だと思います。また、基礎研究の世界には男女差別はないと感じています。先に論文を出したものが勝ちなのです。論文は決して裏切りません。そういう思いで私は研究を続けて、まだまだ研究者としては未熟ですがそれなりの道を作ってきました。ぜひ女性研究者を目指す皆さんにはライフイベントにくじけずにご自身の知りたいことを明らかにする研究を貫く強い信念を持っていただきたいと思います。
女性の昇進を妨げる「ガラスの天井」という概念がありますが、研究への強い信念と研究者としてのプロ意識を持つことでガラスの天井は打ち破ることができるのではないかと思います。どうか一緒に福島医大の基礎研究を盛り上げていけたら幸いです。
病態制御薬理医学講座 講師 堀田 彰一朗
医師、教職員として本学でご活躍中の先生方の中には、教員としてどうあるべきか、日頃悩んでいるいらっしゃる先生方も多いように思う。斯く言う私もその一人であり、日々悩みの種が尽きない。また、自分の悩みも解決できないままこのようなことを書くのもなんだが、私は一方で日本の優秀な学生の学術界離れを危惧していたりもする。それは近年の博士課程への進学率低下に如実に現れている。優秀な人材を集め、大学の魅力の向上、研究教育力の底上げのためには、直感的に目指したいと思える教員像が必要であると考えている。そこで、私なりの大学教員としてのロールモデルを紹介することで、その重要性を少しでも多くの先生方と認識・共有し、最終的に本学の価値向上に繋がればと思い、寄稿させていただいた。私にとってのロールモデルは学部時代から大学院修了まで大変お世話になった東大時代の恩師である。学生時代から研究のいろはについて指導を受け、キャリアを形成する上で、またライフイベントを乗り越える上で、今でも大きな影響を受けている人物である。私は大学入学後2年間の教養課程修了の後、配属先の研究室として構造生物学及び分子生物学を専攻している研究室を選んだ。そして、学部4年生から修士課程修了までの3年間、その恩師のもとで新米の研究見習いとして研究活動に没頭した。修士課程修了後、博士課程への進学か、既に内定していた企業の研究職か選択を迫られたが、妥協せず真理を追求し続けるその恩師の真摯さに共鳴することが多く、熟考の末博士課程への進学を決心した。そこには、純粋に恩師のような大学教員になりたいという憧れがあった。また、恩師指導のもと自身が執筆した最初の論文が国際誌に受理され、東京で開かれた国内学会、さらには米サンフランシスコで開かれた国際学会において若手優秀賞を受賞できたことは、博士学位取得への道を後押しした。
博士課程に進学した理由は、上述の通りだが、一方、博士課程への進学は、大抵の場合、学位取得後研究員として短期契約の更新、延長で薄給生活を余儀なくされてしまう現状も事実である。大学での研究の魅力という点では、このような環境の改善が必要であると思ってはいるが、その議論は別稿に譲るとして、研究者として一人前になるためにはこの長い下積み生活が必要なことも事実である。そういえば、同世代の研究者仲間と、若手期間が長いのはお笑い芸人と研究者くらいだ、と談笑したことがある。同世代のプロ野球選手はその頃には大方引退しているというのに。
いずれにしても、博士課程の修了後には、博士研究員のポストを探す必要があった。当初は国内の研究室に応募しようかと考えていたところ、恩師から「海外で研究してみたくはないか?」という助言をいただいた。自分にも海外で研究者として働くという選択肢があるのかと、視界が開かれた瞬間でもあった。そして、どのみち下積み生活をするのならば、と一念発起し、海外の一流の大学で博士研究員として働き、世界の舞台で切磋琢磨し自身の論文を発表したいという欲求が生まれた。私の場合、単身であった故しがらみが少なかった分決断は容易だったのかもしれない。特に伝手があるわけではなかったため、なんとか留学先を探そうと、私は国際学会に参加し、無礼を承知の上で、魅力的な講演をされた先生を登壇下で待ち構えることにした。彼は、講演後いきなり話しかけてきた私に「日本に帰ったら学歴とこれまでの研究業績を書いたCVを送ってくれ」、とだけ伝えその場は去っていったが、帰国後早速CVをメールで送ったところ、もう一人の先生と三人でオンライン面接を行う機会を与えていただいた。その面接で自分を売り込み、博士学位取得と同時にオックスフォード大学に留学する機会を得ることが出来た。当初一年間という短期契約であったが、幸いにも日本学術振興会の海外特別研究員に選ばれたため追加で2年、経済的な心配をせず研究に打ち込みオックスフォードで論文発表し、国際学会で発表の機会に恵まれた。
そのままオックスフォードで研究を続ける選択肢もあったが、イギリスで知り合った先生の紹介もあり、京都大学医学研究科において医薬開発の重要な標的であるGPCR構造研究、抗体医薬研究を行った。本学着任後は自身の専門分野研究と医学研究の融合、さらには新しい医学分野に着手し研究を続けている。私自身、このように多岐にわたる研究を遂行する中で、研究分野の全体像を俯瞰できどの分野にどのようなニーズが有るのか把握できるようになった。国内海外双方の一流の研究機関での勤務、論文執筆、国際学会での発表、出会った友人は、私にとって生涯の財産であるが、このように思い返すと、その源流は駆け出しの頃の恩師のご指導や彼への憧れに繋がっていることに気づかされる。
さて、このように東京、オックスフォード、京都と下積み生活を続けていく中で、ライフイベントはどうであったか。実はここにも私の恩師の言葉が影響している。多くの人がそうであるように、海外で研究者として働いていると自身のキャリア形成について不安に襲われることが多々ある。特に、研究が人生の全て、という気持ちで留学しているとその不安感は計り知れない。そのような気持ちを恩師に吐露したところ、独り身であった私に「結婚や子育て、親孝行を大切にする生き方」を諭してくださった。当時私は生活の中で生じていたワークライフ・コンフリクトを正当化するやや偏狭な哲学を持っており、その生き方が恩師の目から見て忠言に値すると判断されたのかもしれない。恩師の言葉を受けて、当時海外に身をおいていた自身の周りを見回してみると、私生活の充実から学ぶことの多さに気づかされた。家族と過ごす時間を積極的にとることで、日々のストレスの軽減につながる。また、何よりも家族と思い出を共有できる喜びがある。私も幸いなことに、本学に着任後家庭と子供に恵まれた。子育てをする中で自身を見つめ直す心の余裕ができ、時間の使い方を工夫することで仕事も以前と同じように遜色なくこなせているつもりである。現在、このようなワークライフ・バランスの整った生活を送ることができているのも、先に諭していただいた恩師の言葉が発端となっている。
上述の通り、私にとって自身のキャリアを形成しワークライフバランスを充実させる上で、恩師の生きざま・考え方はまさに私にとってのロールモデルであった。当初は意識していなくとも、月日が経って初めて、自分自身が恩師の研究姿勢や生き様に根底の部分で感化されていたことに気づく。自身の研究人生を生き抜く中で、また人生の節目となる決断する中で、このような出会いは大変貴重な財産である。本学でご活躍されている若手の先生方や学生にも、そのような出会いを是非大切にしていただきたいし、私自身も本学の教員として、私の恩師のように誰かのロールモデルとなるよう日々研鑽を積みたく思っている。
最後になりましたが、執筆の機会を与えてくださった男女共同参画支援の皆様ならびに本学関係者の皆様に心より感謝致します。
基礎病理学講座 助教 東 淳子
ある日「ロールモデルとして若手医師へ向けたメッセージを書いて欲しい」という依頼がきた時、うちをロールモデルにするなんてやめときなはれ、というのが正直な心の叫びだった。確かに(診療はせずに研究専門ではあるが)私はフルタイム常勤職についている。確かに我が家には子供らしきものが生息している。その上、当大学の男女共同参画推進事業による研究支援を受けているから、原稿依頼を断りたくても断れまい、という魂胆もあるだろう。だがしかし、云十年「ぼーっと生きてきた」私が現在のキャリアを歩んで来られたのは、ひとえに環境が良かっただけである。育児をしつつキャリアを邁進していく同僚に恵まれており、私はその牛後に「ぼーっと」くっついて行っただけである。そういうわけで私を見習いなさいとは到底言えない。代わりに、この稿では私が出会った強者達を紹介したいと思う。
5年間の臨床経験を経たのちに入学した大学院博士課程の研究室には、私以外に複数の女性医師が相前後して入学した。「彼女達」は非常に明確な目標を持っていた。「学位を取る(当たり前)」ことと「子供を産む(未婚者は相手を見つけるところから始めて)」こと。かくして私の大学院生活の間、研究室では常に誰かのお腹が大きいという事態になった。それぞれの大学院生が個別の研究プロジェクトを担当していたので、誰かが産休でぽっかりいなくなっても他の院生のプロジェクトには影響しないという環境も幸いした。研究内容と並行して子供達の成長や育児の苦労話を皆で共有したことで連帯感も強く、産休中や子供の急病などで最低限の作業を誰かに頼まなければならないとしても、「そこのところはお互い様」だった。彼女達は学位を取り、子供を産み、ついでに専門医も取り(!)、今では臨床の第一線に復帰している。
そんなわけで大学院に入った時にはこれといった人生設計を考えていなかった私も、周囲の出産ラッシュに流されるように最初の子供に恵まれた。周囲は妊娠・子育ての先輩ばかりなので心強いことこの上ない。ただ学位取得後の進路は前述の彼女達とは違った。もともと基礎研究が性に合ったということと、大学院時代に御縁のあった研究者が教授に就任し、「赤ん坊がいることは百も承知」という厚遇で彼の研究室に受け入れてくれたため、第一子出産後に研究員として復職した。前述の彼女達を見習ったわけではないが、その研究室に勤務している期間に二人目も出産した。その後、夫の海外留学が決まり、3歳児と0歳児と共にアメリカへ連れていかれることになった。運がいいことに、連行先の大学でポスドク研究員としての受け入れてくれる研究室が見つかったため、私も留学という形になった。そこで次に紹介する強者に出会うことになる。
私が留学先の研究室に入った初日に教授が言ったことは「何時にラボ(研究室)に来ても何時に帰ってもいい。いつでも休みは取っていいし、事前連絡も事後説明も必要ない」だった。乳幼児がいる私だけ特別待遇というわけでなく、ラボメンバーは家族の事情や宗教行事など自分の生活と実験スケジュールに合わせて、自由に働いていた。言語も常識も違う海外生活の中でラボのこの徹底したフレキシブルさは非常に有り難かった。私の後に大学院生としてラボに入ってきたのが「彼女」だった。彼女は初等教育も充実していない治安の悪い地域で生まれ育ったアフリカ系アメリカ人(黒人)で、多くは語らなかったものの、大学を卒業して大学院へ入学するには並大抵ではない努力があったことがうかがわれた。彼女は将来自分の出身地域の教育の向上に貢献することを目指しており、学位はそのためのキャリアの一環と位置付けていた。それだけでも頭が下がるところが、トドメは、小学生の子供を持つシングルマザーであるということだった。大学院の厳しいカリキュラムをこなすことと同時に、家事も育児も全てが自分の肩にかかっている分、疲れた顔もしばしば見受けたが、人生の目標から決して目をそらさない彼女の姿は、逆境とは縁がなく生きてきた私には眩しく映ったのだった。
翻って我が身を眺めてみると、はたと困ってしまうのである。自分には彼女が持っているような強烈な人生の目標はない。基礎研究は好きだし、研究職は勤務が比較的フレキシブルであり育児に好都合だから、現在の職種を積極的に変えたいとは思わない。かといって科学の歴史を塗り替えるような大発見をしようなんて大それた野望は考えたこともない。せいぜい、人類の科学の縁の下の土台の礎石の石垣の間にはさまっている小さな砂つぶにでもなれたら御の字という身の程である。
結局、育児をしていてもそれを否定的に捉えない環境の職場に恵まれたことと、家庭を持ち育児をしながら自分の目標を失うことなくキャリアを続けている同僚がいたから、こんな私でも今までやってこれたのである。そんなこんなで現在も「ぼーっと」育児と研究仕事をしている。
法医学講座 教授 黒田 直人
よく、「法医学は基礎医学」だとおっしゃる方がいます。法医学、特に死因究明は純然たる臨床医学なのですが、このことは一部の医師の方々にすら理解して頂けないことがあります。治療こそ滅多に行わないものの、個々の症例を診ること、そして症例研究によって診断精度を向上させることが主眼であるという点で、法医学は診断を主とする臨床医学なのです。普通の臨床を医療の「母屋」に例えるなら、これまでの法医学は「離れ」もしくは「別棟の一室」に見えたかも知れません。そして、どちらかというとバックヤードでの仕事が多く、裏方のような印象を与えていたかも知れません。
法医学はご遺体を調べますが、法医学の興味の対象はご遺体そのものではなく、その人が最後にどのような亡くなり方をしたのかを、医学的・科学的根拠に基づいて客観的に診断することが最大の目的です。つまり、法医学就中死因究明とは、ある所見の証拠としての客観性を吟味する作業であり、法医学者あるいは死因究明医はevidence hunterであると言えます。
さて、昭和58年(1983年)東京医科大学を卒業した黒田は、慶應義塾大学医学部法医学教室の助手として採用されました。 何故法医学だったのか?
手っ取り早い話、黒田の両親(いずれも医師)が福島県立医科大学で法医学を専攻していたことに影響を受けたということにしておきましょう。実は紆余曲折、複雑怪奇な経緯で法医学教室の入り口に辿り着いたのですが、その話はまた別の機会に。
黒田が入室した当時、講座主任だった渡辺博司先生は、時間を無駄にすることを大変嫌っていました。用もないのに大学に来るな、居るな、そんな暇があったら、落語の一つでも聴いて来い、でなけりゃ本を読め、医学書じゃないゾ、囲碁をやれ、絵画を見てこい、歳食ったら味が覚えられないから今のうちに旨いものを食わしてやる、「長押」と「鴨居」の違いぐらいちゃんと覚えておけ、等々エキセントリックな教えを数々受けて、黒田を末っ子に兄弟子たちと中身の濃い毎日を過ごしておりました。
そんな中、そのように見えたかどうかは別として、黒田は決して遊びっぽけていたのではなく、機会を捉えてご遺体を前に大将(渡辺先生の渾名)や兄弟子たちと侃々諤々の議論をし、下手な事を言おうものなら大将と兄弟子たちから情け容赦なくボコボコにされていたのです。しかし、居場所のないような孤独感や喪失感を覚えたことは一度としてなく、どんなポカをやらかしても、喉元に刃を突きつけるような叱責は決して受けませんでした。
経験を重ねるうち、いい気になっていた生意気な黒田を叱ってくれたのは、後の同僚でした。彼は歳こそ黒田よりも若いのですが、指摘は時に辛辣で、そして厳しく怖い人です。とても怖いのですが、扱き下ろされて真っ逆さまに落ちて行く黒田を必ずセイフティネットで救ってくれたのもその人です。
その人はとても良いことを黒田に教えてくれました。
「先生ね、馬鹿話がし会えるような人間関係を作らなきゃね。緩いキャッチボールみたいなね。ボクシングのニュートラルゾーンみたいなのが。人と人との間には必要なんですよね。」
多様な個性と渡り合わなければならなかった法医学で潰れずにいられたのは、この助言であったと確信しています。
さて30歳で結婚し、耳鼻咽喉科医の妻との生活が東京で始まりました。やがて長男が生まれ。その後家族3人でスコットランド・ダンディーへ留学、帰国後には長女が生まれて家は賑やかになりました。黒田の仕事場の人々は皆、「カミさんのほうが黒ちゃん(黒田の渾名)より収入が多いんだから、黒ちゃんが家のことをやらなくちゃダメだぞ。」と異口同音に語るのでした。
実際、朝晩の送り迎えは勿論、妻が当直で不在の晩のご飯作りや入浴、寝る前の本の読み聞かせなど、当時は子供と一緒の時間が妻よりも黒田のほうが長かったのです。仕事の作業時間をあちこち動かして、家で出来る仕事は家でやり、子育ての時間を確保しました。イクメンやリモートワーク、黒田は30年前からやっていたのです。
福島に来る前、弘前大学で教授になってからも、子供のPTAや学校新聞などの編集など、結構忙しく過ごしていました。黒田の研究業績が少ないのはそれが理由かという議論は面倒臭いからしないことにして、とにかく充実した日々を送りました。
その後震災があり、父に続いて母が認知症を発症したことを機会に、生まれ故郷の福島に戻って来ました。両親は亡くなり、子供達も独り立ちし、今では妻と二人の生活に戻りました。
死因究明医の仕事は、お呼びでないと言われるまで続けるつもりです。臨床とは全然違うように見えるかも知れませんが、前にも述べたように。法医学は臨床医学です。医師でなければ出来ない死因究明の日々は、あっという間に過ぎるほどの濃厚なものだったのです。
循環器内科学講座 助教 横川 哲朗
まず僕のこれまでの経歴を主に述べますが、私は大学卒業後、福島県立医科大学付属病院で2009年から初期臨床研修医として勤務しました。福島県立医科大学付属病院の指導医の先生方は大変親切であり、どの科でも丁寧に、時には厳しく指導頂き、大変充実した研修医生活でした。さらにローテートする科の自由選択期間も長く、同僚にも恵まれ、医療人育成支援センターのサポート(短期海外研修制度にも参加しました)も行き届いておりました。2年間の初期臨床研修が終わった後、福島県立医科大学循環器内科学講座へ入局しました。福島県立医科大学にて循環器内科としての最先端医療の研修を受け、その後関連病院での勤務を経ている最中に、ライフイベントとして結婚があり、長男に恵まれました。2014年から大阪府にある国立循環器病研究センター心臓血管内科心不全部門で2年間の研修生活を開始しましたが、その際は単身赴任で、同院敷地内の寮でずっと過ごしておりました。循環器内科としての勤務は緊急対応が必要なケースも多く、担当医制であったので、帰郷する時間を多くはとれませんでした。しかし関西の方々も良い人が多く、様々な循環器内科医の先生方と臨床の研鑽も出来、良い時間を過ごせたと思います。その後、福島県立医科大学付属病院循環器内科で臨床業務中心の勤務となりました。妻と共働きであったため、その際には福島県立医科大学託児所「すぎのこ園」に長男を預けておりました。「すぎのこ園」での運動会が、福島県立医科大学の体育館で開催され、いつもは仕事上の付き合いであった先生方や看護師さんらと、親同士として接することになるという、貴重な経験をさせて頂きました。さらに長男の体調が悪化した際には、またまた福島県立医科大学付属病院の付属施設である病児病後児童保育所「すくすく」に長男を預け、勤務中の世話をしていただくこともありました。他には男女共同参画支援室のホームページにも記載ありますが、保育所の対応困難な曜日や時間に関しては「福島市ファミリーサポートセンター」の援助を受けることもありました。このように、福島県立医科大学では、男女共同参画支援の観点から、子育てしながら勤務できる環境が大変充実していると思います(ただし、私の場合は手続き等ほぼ全て、妻がしておりました、、、)。
その後また、関連病院での勤務となりました。循環器内科の臨床医としての勤務については、急性冠症候群に対する緊急心臓カテーテル検査・治療に代表されるように、常時、昼夜問わず臨戦態勢といっても過言ではありませんが、福島県での循環器内科としての勤務は、同僚との密接な連携もとれているため、月に数日は、自分で自由に使える時間を持ち、家族と過ごす時間もとれ、ライフイベントとの両立も十分に可能な環境にあります。その後再度、福島医大へ戻り、2018年から病棟を離れ、現在、外来と研究業務中心の業務となっております。研究業務中心ですと、緊急で救命センター・病棟から呼ばれることはなくなったのですが、ある意味、研究は業務量の上限がなく研究を複数の観点から行おうとする際限なくできてしまうので、研究に打ち込める時間が、業務量を規定するものと思います。また、日常生活は細胞の培養状況(細胞は基本、連日チェックする必要あります)などに左右されます。自分が培養している細胞は自分中心の管理となり、細胞の調子に合わせた生活になるため、臨床業務とはまた違った理由で、なかなか福島県立医科大学にある実験室から離れられなくなります。さらに培養する細胞の種類や数も、研究費がある限りは増やすことが理論上は可能のため、研究をどんどん進めようと思うと、どんどん自分の時間がなくなります。つまり、この研究業務量問題は、家庭で過ごす時間と相反するもので、ワークライフバランスの観点からは、難しい問題と思います。そこで、僕は男女共同参画支援室のライフイベント(育児)を抱えた研究者の研究支援を頂いています。現在、研究支援によって、実験を手伝ってもらってできた時間を朝の保育園への送迎と、子供とあづま運動公園や十六沼公園などで遊ぶ時間とすることが出来、この男女共同参画支援室の研究支援制度には大変感謝しております。他、福島県立医科大学では、男女共同参画支援室によるワークライフバランスなどに関するセミナーの開催が定期的に行われており、育児、介護、出産などのライフイベントとの両立のための医師ら医療従事者の業務負担軽減に関して、考える機会が多くあります。僕はこのように、今まで男女共同参画支援室の支援を受け、ワークライフバランスとの両立を測り業務を継続してきた経験から、男女共同参画支援室の各種制度を活用することを、福島県立医科大学の後輩へ伝えたいと思います。
血液内科学講座 准教授 大河原 浩
私は平成8年度に福島県立医科大学を卒業いたしました。大学卒業後は福島県立医科大学旧第一内科(循環器血液内科学講座)に入局いたしました。福島県立医科大学附属病院で1年間の臨床研修後、福島県内の大熊町の公立病院に1年間、本宮市の民間病院に2年間、内科医として勤務した後に福島県立医科大学循環器血液内科学講座に帰局いたしました。 研修期間中は、消化器内科、血液疾患を中心とした一般内科、循環器内科の研修をさせて頂きました。研修病院は地方の中堅病院のような存在でしたが、尊敬できる先輩先生方の下で、専門領域を問わず、様々な内科疾患の診断と治療を学ぶことができました。様々な臨床研修をさせて頂いた中で、尊敬する先輩の影響もあり、一般内科と消化管内視鏡の検査と治療に興味を持ち、消化管内視鏡専門医を目指すことを決意いたしました。医局帰局後も県内の数カ所の民間病院で消化管内視鏡の検査と治療の研鑽を積むことができ、消化器内視鏡専門医を取得することができました。
大学帰局後は臨床の研鑽を積みながら、学位論文のテーマである動脈硬化と凝固線溶異常の研究を開始いたしました。動脈硬化と凝固線溶異常の研究を開始いたしました。臨床研鑽をしながらの研究はとても大変であり、実験は連日深夜まで及び、週末も実験をしなければなりませんでした。論文作成に当たっては、厳しくも理解ある上司や先輩、後輩に恵まれ、助けて頂きながら、6年がかりで医学博士を取得することができました。臨床研鑽を行いながら、研究を続けていくことは困難の連続でした。しかし、新しい発見に喜びを感じ、医学博士を取得した後も研究を続けたいと思うようになりました。その後、研究留学を決意し、米国シカゴのイリノイ大学薬学部にポスドク研究員として約2年間留学いたしました。留学は準備段階から渡米後もうまくいかないことばかりで、苦労の連続でした。しかし、協力的な上司や同世代のポスドク留学生との交流はとても充実したものになりました。留学生活は苦労が絶えませんでしたが、私の人生にとって、とても貴重なかけがえのない経験だったと思っています。 帰国後は福島県立医科大学循環器血液内科学講座に再帰局することができました。理解ある上司のお力添えもあり、再び、同医局で動脈硬化の研究を続けることができました。臨床面では研修医に戻って研鑽する覚悟で、血液内科専門医を目指すことといたしました。造血器腫瘍に対する最新の抗癌剤治療や造血幹細胞移植を学んでいくことは新鮮で興味深い反面、血液内科学の研鑽は予想以上に大変でした。当時30歳代後半であった私は、若いドクターと違って、スタートラインが出遅れていると感じ、焦りを感じていました。とにかく研修医に戻ったつもりで、謙虚な気持ちで、血液内科の後輩ドクターからでも学べることは吸収し、ひとつひとつの症例を大切にして、できるだけ丁寧に経験を積んでいこう思いました。血液疾患は、それぞれの症例ごとに病態が多彩だと感じました。ひとつひとつの症例にじっくり丁寧に取り組んでいくことによって、教科書や文献からだけでは学べないたくさんのことを吸収することができたと思っています。血液内科の研修を本格的に始めてから約4年で、理解ある先輩や同僚、後輩に恵まれたこともあって、血液専門医・指導医を無事取得することができました。
私は4年前に妻に先立たれ、精神的にとてもつらい時期がありました。子育てをしながらの医師としての仕事を続けていくことは想像を絶するほど大変でしたが、家族や理解ある上司や先輩に支えられ、医師として、研究者として、ここまで頑張っていくことができました。人生には予想外の出来事がたくさんあります。家族や理解ある仲間への感謝の気持ちを常に忘れずに、前を向いて、踏ん張って挑戦を続けていけば、必ず充実した人生を送っていけると思います。
皮膚科学講座 助手 平岩 朋子
私はいま2人の子供を育てながら皮膚科医として働いています。今回、後輩のみなさんに向けてこのようなメッセージを書く機会をいただきましたが、私自身も仕事と家庭を上手に両立しているわけではありません。周囲の人たちの力をたくさん借りて、日々試行錯誤しながらなんとかここまで続けてきた、と言ったほうが正しいです。そんな私ですので、子育てしながら医師を続けるためのなにかとっておきの秘訣を知っている、というわけではありませんし、子育てしながらでも絶対に医師を続けるべき、とも思いません。ワークライフバランスの考え方は、一人ひとりの人生観や置かれた環境、譲れない信念などによって決定されるものであって、決して画一的なものではないからです。他の誰かにできたことが自分にもできるとは限らないし、自分にとっての正解がほかのだれかにも等しく正しいわけでもありません。しかし、思い悩みながらもここまで医師を続けてきた私の経験が、将来同じように思い悩むだれかの道標になれたらいいなと思っています。私には医師を辞めようと思った時期がありました。皮膚科医になって2年目に長男を出産し、半年間の育休を終えて仕事復帰したときのことです。離乳食を始めたばかりの、まだ人見知りしない、お座りもできない息子を保育士さんに手渡して慌ただしく保育園を出る朝はいつも少しの罪悪感がありました。そして、これから自分は息子の様々な成長のかけらを少なからず見落としていくのかもしれない、と残念な気持ちにもなりました。それでも仕事復帰を選んだのは、“医師であり続けなくてはならない”という使命感があったからで、“医師でありたい”と思う自分自身の前向きな気持ちでは正直ありませんでした。生後半年の息子は保育園に通うようになったとたんに頻繁に熱を出すようになり、そのたびに私はやりかけた仕事を残して息子を迎えに行きました。仕事を無責任に投げ出してしまったというふがいなさと、熱でぐったりする息子に対する申し訳なさで押しつぶされそうになったとき、「医師を辞めよう」と決意したのです。仕事復帰して間もないころでした。
ちょうどそのころ、とある女性医師の講演を聞く機会がありました。「医師は社会の財産であるから、自分の都合のみで簡単に辞めてはならない。」そんな、悩める女性医師たちに向けた叱咤激励の言葉であったと記憶しています。私はまるで逃げ道を絶たれたように感じてショックを受けましたが、確かにそのとおりであるとも感じました。本当に医師を辞めるしか方法はないのか。困難から逃げているだけではないのか。子供を“理由”にしても、“言い訳”にはしたくない。自分が納得するまでは投げ出さずに医師を続けよう。そう思い直し、結果として現在まで医師を続けてきました。綱渡りのような日々でしたが、幸いなことに私にはサポートしてくれる家族がいました。職場の上司や同僚の理解もありました。息子が体調を崩すことは徐々に減っていき、今や彼は医師である母を労い応援してくれる心強い存在に成長してくれました。昨年私は本来よりも数年遅れてようやく皮膚科専門医資格を取得することができたのですが、その試験前日にそっとお守りを手渡してくれたのは、あの熱ばかり出していたはずの息子でした。
子供を産み育てながら仕事をするというのは、世の中の多くの女性が苦労して実現していることですが、医師にとっては殊に困難であるように思います。医学部を卒業して2年間の卒後臨床研究を終え、自身の専門分野を決めてようやく医師としてのスタートラインに立つまでに最短でも8年かかります。また、医師の仕事は日常診療のみならず学会発表や論文作成、資格試験など、短期から中長期的なタスクが重複して生じるため、結婚や妊娠、出産といったライフイベントによってキャリアが中断することの不安は大きいです。しかし、本来求められる半分、いやたった1割しか仕事をこなせない時期があったとしても、少しずつでも続けていけばそれでいいのではないでしょうか。続けてさえいれば必ずだれかを助けることができるし、ほんのわずかでも医療に携わることができるし、いつかこうして後輩たちにエールを送ることだってできます。もしあなたが医師を続けたいと願うなら、必ずそこに道はあるはずです。先に述べたように、ワークライフバランスの考えは人それぞれ。人と比べず、人に流されず、自分自身のベストを模索していくことが成功のヒントかもしれません。「仕事」も「家庭」も、どちらも等しく私というひとりの人間をかたちづくる大切な要素です。わたしたちが望むなら、「仕事」も「家庭」もどちらも手放さなくていい。私という個を、もっと私らしく、充実して生きるために。
放射線医学講座 助手 長谷川 靖
育児休業(育休)をとったので白羽の矢が立ったということなのでしょうが、ロールモデル(将来において目指したいと思われるような模範となる存在、らしいです)の紹介とのことで依頼を受けました。自分は平成9年に福島県立医科大学医学部を卒業しています。現在48歳です。平成30年に第1子、令和2年に第2子が生まれました。平成26年度、男性が父親となる平均年齢は、第1子32.6歳、第2子34.3歳とのことなので、その年齢でのワークライフバランスに関して述べるようなことはできません。また題名のようなテーマでのことでしたが、とてもそのような大げさなこともありません。そういうわけで(この年齢前後で子供ができる人は厚労省のデータを見るとおそらく男性の1~2%なので)ロールモデルよりはレアなケースレポートとして、育休に絞って取得した理由、個人的な感想などを述べたいと思います。子供の誕生直後にそれぞれ2~3ヶ月ほど育休取得しました(妻の復帰が令和3年3月予定なので再び1ヶ月半ほど育休取得予定です)。現在復帰し、附属病院の放射線科で画像診断をしています。撮像後モニターに表示される画像を解釈し、文章化するのがほぼ一日の仕事の全てです。時々電話などで画像所見に関してコンサルト受けたりします。その他週1回の他科とのカンファランスに2つ、月1回のものに1~2つ程度参加しています。また月1回の日直のほか年に2回程度の学生講義をしています。
育休をとった理由は積極的にやってみたかったというのが大きいです。めったに無い機会ですし、何でもはじめが肝心と思いますが、産休を取る妻と同時に同じようにかかわらないと、その後の子供に対する取り組みに大きな差ができてしまうかもしれないという不安もありました。なので子供と一日一緒に過ごせたことは大変ありがたかったです。男性でどうしてもできないのは出産と母乳を直接やることですが、逆にそれ以外は男性でも問題なくできるので、不安があればまずやってみることだと思います。やってみて初めて自分の家族のこと、自分を育ててくれた親のこと、同じように子育てしている人のことがわかることがあると思います。職場でも育休に興味のあるとの男性の声を聞きましたが、今まで以上に気にかけたり、応援できるのではと思っています。
また育休を取得する環境は幸いにも整っていました。年齢からもワークという点ではある程度経験があるので、育休の期間でどうしても身に付けなければならないスキルなどは若い人に比べると相対的に少ないです。さらに業務内容も自分のみが行っているというものはないので、周りの方々の量が増えて申し訳ないですがお願いすることにしました。
逆に若い方々よりも今後働く期間も短いので、これからの人生考えると仕事にどの程度重きをおくか、せっかく育児などできる(しなきゃならない)環境で歯を食いしばって仕事もしなくてもいいのではないかなどと考えたります。最近は育児も長い人生の一部として考えられるようになりました。
休む期間に関してですが、ある程度長い期間がいいと思います。初めの数週間は出産前後のバタバタがあって、役所の種々の手続き等々行うと何もしないうちに過ぎ去っていってしまいます。また仕事がないといっても朝から掃除・洗濯・炊事・買物・授乳以外の育児等々など始まるとあっという間に夜で、とても休んでいるという感じではなかったです。下の子のときは上の子の保育園の送迎も加わりました。
さらに使える制度はありがたく使わせてもらったほうがいいと思います。福島医大ではいろいろな就業継続支援があり(詳しくは https://www.fmu.ac.jp/home/gendeqsp/effort/#support)、現在も早出遅出勤務制度で、7時過ぎから勤務し、前日の夕方以降撮像した画像の読影を行い、16時頃保育園に迎えに行く生活をしています。通勤の混雑を避けられるだけでも本当に助かっています。育児休暇で1時間半ほど早めに帰宅していた時期もありました。下の子の出産の際には配偶者出産休暇、育児参加のための休暇のあと育休にスムースに入ることができました。上の子は保育園入園当初風邪を引きがちで、月に何日も休むことになりましたが、子育て休暇もあり助かりました。また敷地内にある病児病後児保育所は、子供の体調が悪いときやその前後には心強いです。
ただし、これら制度は残念ながら医師全員が同じ条件で使えるわけではありません。事前に詳しく確認することをおすすめします。また収入に関しては、大学の場合それ以外のところからもあると思いますので、育休手当が出てもいわゆるサラリーマンよりは減少する割合は大きいと思います。
以上育休について思うところ書いてみました。多少なりとも参考になることがあれば幸いです。
麻酔科学講座 助手 花山 千恵
私は医学部卒業と同時期に結婚し、臨床研修終了目前の、研修2年目の1月に長女を出産しました。計画外のタイミングでの妊娠・出産でしたが、結果的に自分にとってはベストな時期だったと、生まれてきた娘に感謝しました。出産時期は働く女性にとって大きな悩みの種です。私も「いつがベストか?」と何人もの後輩にきかれ考えましたが、結論、良いタイミングなどありません。いつ妊娠しても出産しても、少なからずキャリアの妨げになるでしょうし、出産後も自分の生活と子育てとを切り離すことはできなくなります。若いうちに学びたいことは膨大で、知識を形にするために取りたい資格は次々に出てきます。時間を気にせず仕事に没頭すればこその経験も積んでおくべきです。が、存分に仕事をしてからの妊活では「若いうちに出産しておくべきだった」と悔やむ可能性も大きいのです。逆に考えれば、出産はいつでも良いのではないでしょうか。授かった時こそがベストなタイミングなのだと、私は考えるようにしています。
私の場合は、わずかに研修の必要日数を残して産休に入りました。そのため翌年の3月に麻酔科の研修医として復帰し、4月からは麻酔科の医局員として勤務するという方針としました。経験の浅い研修医が、まる1年仕事から離れることの不安は大きく、仕事に復帰する際に「麻酔科医」としてではなく「研修医」という立場で仕事を再開するできることは、少なからず気持ちの負担を軽くしてくれました。また仮に、完全に研修を終了し、医局に所属することもなく無所属で休みに突入してしまえば、復帰の不安からいつまでも仕事が再開できなくなったかもしれません。更に私が恵まれていたと感じたのは、子供が生まれる前提で入局先を検討できたことでした。「小さな子供がいる」という(悪?)条件があっても、当時の教授始め医局の先輩方は私を歓迎してくださいました。そして折に触れ、家庭のことを気に掛けていただきながら働けたことが、今まで仕事を続けられている第一の要因だと思っています。
しかしながら、医局の中で一番下っ端の私が経験しなければならないことは多く、当直業務もその1つでした。先の理由で仕事に復帰したときには娘も1歳2ヶ月になっており、完全母乳だった授乳も終了していました。復帰当時、夫は国内留学中で遠方にいたため私は実家に転がり込み、母が対応可能な水曜日に当直を当ててもらうことで、子育てをしながらも夜中の臨時手術の経験を積むことができました。
二人目が生まれたのは娘が5歳の時でした。子供が二人になると、子供達(うち一人は赤ちゃん)を世話する際の負担は激増します。自分以外の大人に預けるとなるとさらに混乱を極めることになり、二人目出産以降私は当直業務から外れさせていただいています。また、この時には私は助手の立場になっていたため、時短勤務制度を活用することができました。復帰後1年間は1週間あたり2.5日分、次の1年は3日分と徐々に勤務時間を延ばし、3年目以降はフルタイムで働いています。時短勤務制度が導入されているのは、当学の大きな魅力です。そして時短勤務中でも、外来のみなどと業務を制限することなく、その時々の私に必要な業務や症例を経験させてくださった教授や医局長には感謝に絶えません。
現在長女は小学5年生、長男は5歳の年中児です。私は麻酔科の専門医となり、手術麻酔の他に緩和ケアの勉強をする機会を頂いています。今では娘は一人でお留守番もしますし、夏休みなど学童に通う時には自分でお弁当を作ります。息子は保育園に持って行く着替えなど、自分で準備しますし、夫も年々家事の腕を上げています。仕事の面では、自分自身の成長の遅さに愕然とすることも多いものの、遅いながらにも経験と知識は少しずつ蓄積され、様々な局面に落ち着いて対応できるようになってきました。大学病院にいると臨床以外の研究・教育等の業務をこなす必要があります。そういった方面の努力が今後大いに必要なのですが、例えば学会で発表するためのポスター作成も、入局したての頃よりはずいぶんスムーズにできるようになりました。
仕事と家事・育児、双方をこなすのはもちろん大変です。が、「大変」のレベルは年々小さくなっているように感じています。
医師の仕事は、やりようによっては1日24時間で足りないくらいのタスクを作り得ます。一方で母親というのも、一日中家族のために働く役回りです。両方を完璧に両立など不可能です。仕事も家事・育児もそれぞれ理想の60%程度しかできないと、中途半端さがもどかしくなります。でも、両方合わせたら120%です。すごい!そうやって割り切って、「ま、いっか」を合い言葉になんとかやり過ごしてここまできました。特別輝かしい研究成果を出したわけでもなく、子供達を神童に育て上げているわけでもありません。が、毎日が充実して楽しく、家族と一緒に笑えているので良いと考えています。
これから妊娠・出産を経験される医療者の皆さん、もしくは今その最中にいる皆さん、いずれ「大変」さは小さくなります。ほんの数年後です。ふっと一心地ついた時に、誇れる仕事をしている傍らで、我が子の成長を見守れるという贅沢を、噛みしめて下さい。とても幸せな瞬間です。皆さんが働くことは、皆さん自身や家族にとっても、社会にとっても大きなメリットです。自分のペースで、まずは続けていきましょう。
病理病態診断学講座 教授 橋本 優子
●変わった女子学生小さい頃、私は少し変わった子で、「お雛様はいらない、大きな鯉のぼりが欲しい」といって、本当に鯉のぼりを揚げてもらっていました。小学校時代は妹とお揃いの赤いグローブでキャッチボールをして過ごしました。また両親も「女の子だから」の理由で私たちの行動を制限することがありませんでした。
こんな両親の元、お転婆の限りを尽くし、大怪我で本学附属病院への入院をきっかけに医師を目指すようになりました。ただ臨床医ではなく、疾患の本質を研究する「病理学」を学びたい(若さゆえの蒙昧さで、病理学でないと疾患の本質は学べないと思っていた)と考えました。恐る恐る高校の担任に伝えた時も、頭から否定されるだろうと予想していましたが、「女だもの、女房子供のこと考えなくていいから、自分で好きな学問すればいいべぇ?」と目から鱗がおちるような返答を頂きました。(「医学部行くなら結婚はしないのね」という笑えない前提がありつつも、)むしろ女性だからこそ得られる「自由」といった面を指摘された瞬間でした。物事にはいろいろな考え方があるのだと実感しました。
本学の入試面接は、竹川 佳壽子先生(前 社会学教授)が面接官の一人で、「女性が職業を持ちつづけること」の質問で終始しました。私はかなり印象に残ったようで、入学後も竹川先生と度々お話させて頂きました。
大学入学2日目、オリエンテーションの懇親会で、隣席となった第二病理学(現 基礎病理学)の中村教授に、病理学に興味があると伝えたものの、「女はいらんなぁ」の一言で一蹴されました。でも入部した剣道部の顧問が第一病理学(現 病理病態診断学)の若狭治毅教授で、私は入学早々、「仕事はやめない」「病理学に興味がある」と言い放ったちょっと変わった女子学生になりました。
それで病理学は胃が痛くなるほど必死に勉強しました。その介あってますます病理が面白くなり、また病理学は臨床への橋渡し領域でもあり、臨床講義や実習も楽しくなりました。
周りの先生方や友人からも病理や研究に関わる機会を多くいただくようになりました。医学祭の部門で担癌マウスの温熱療法の実験を行い、築地の国立がんセンターへ研修に行きました。全国から集まった切磋琢磨する若い研究医の姿が印象的でした。また輸血部の受付バイトに入ったご縁で、大戸斉 前輸血部教授(現総括副学長)から稀な抗血小板抗体の検出パネル作成のお手伝いをさせていただいたきました。
卒業時に、大戸教授からは東京での研修を進められ、がんセンターで見た切磋琢磨する研究医の姿が脳裏をよぎりましたが、好きだった血液と病理学を学べる「悪性リンパ腫」の研究にひかれて、第一病理学の大学院に入りました。何もわからない「病理学への思い込み」から、自分で選んだ「病理学」になりました。卒業時に若狭先生からは「雨滴穿岩」の書を頂きました。「続けていくことが大事」と説かれたのだと思います。
● 伝えたいこと:「続ける努力」
先生方や友人の協力のもと、学生時代に学んだこと、体験したことが現在の私に繋がっています。仕事(技術や研究)や家庭の継続的な日常の積み重ねの延長上に未来があるのだと思います。そして物事を続けていくには、まず「自分で選択した」という覚悟が必要です。
福島県の病理専門医数は少なく、私は病理医を増やすために日々努力していますが、見学に来る研修医に直接的に入局を勧めないようにしています。病理学を続けていくために「自分で選んだ」という自覚と覚悟が必要です。実際辞められた専攻医の多くが、「病理は時間的に融通が利くと人に勧められた」といった消極的な理由で病理学を専攻されていたように思います。
しかし覚悟があっても、仕事と家庭との両立は生易しいものではありません。物事の優先順位をつけて自分の中での仕事と家庭のバランス、また家族単位での自分とパートナーとのバランスをとることが重要な鍵です。特に女性にとっては結婚、妊娠・出産のタイミングと研修・研究(仕事)の兼ね合いが非常に重要になってきます。急な子供の発熱など、ライフイベントの荒波は自分だけの努力ではどうにもならず、周囲の協力が不可欠です。仕事で、家庭で、子育てでいろいろな面で協力していただける人を少しずつ増やすことが、両立の鍵です。私自身多くの先生方、職員、両親・親戚、友人の協力をいただいて、仕事を続けてきました。その経験を踏まえて、若い職員のワーク・ライフバランスには協力しようと考えています。
みなさん!どうか明確な目標をもって、実現のための行動を継続し、周囲とコミュニケーションをとり、協力していただける仲間を増やしていってください。
●ワーク偏重のここ数年、気づいたこと
ここ数年はワーク偏重で、自分さえ何とか頑張ればと無理をしてきましたが、未来の目標がぼやけた感じがしています。どんなに忙しくとも自分のための時間=未来への投資の時間が大事なのだと実感しています。
医学部附属生体情報伝達研究所 准教授 本間 美和子
本学は女子医学専門学校として開校され、専門職とともに生きる女性を教育するアカデミアの先駆けとして重要な役割を担っている。日本では 1999 年に「男女共同参画社会基本法」が施行されて以降、科学技術分野への女性参画は重要な施策として位置付けられ、「内閣府総合科学技術会議」等、国の科学技術政策と関連する政策提言機関や学会組織と連携しながら推進してきた。同時に、社会全体としての豊かさを求め、地球規模での課題解決には、多様な人間が知恵を出し合う社会経済や教育福祉活動の重要性も認識されることとなり、科学研究へ従事する上でも同じように捉えられるようになった。一方、Gender Gap 等の国際データに反映される日本の現状は科学者全体に占める女性比率が先進諸国間で最下位、政治、企業、公務員、大学等のトップにおける女性比率は世界の中で毎年底辺に留まっている。今や世界では、かつての「男女の機会均等(Equal Opportunity)」を理想とする考え方から、「結果均等(Equal Outcome)」の実現へと歩みを進めており、我が国にとってはさらに高いハードルが設定された壁の前に立ちすくむ状況となっている。厳密な統計解析結果によると、男女共同参画についての諸外国平均値を達成するために、我が国は現行のスピードでは 2060 年まで待つ必要がある(※1)。そこから見える解決策の一つは、現在の実態をデータとして捉え、解決すべき方策を考え、理想の事象へ向かって実行する、というまさに科学的根拠に沿った方策しかあり得ない。ここで興味深いことに 2つの対極にある行動様式が予測される。現状を反映する実態データは唯一無二の科学的データであるはずだが「そんなはずはない」とそれを認識しない類である。男女共同参画を議論するときに、私は東日本大震災後の風評被害と似たスティグマがあることを不思議に思っている。先ずは現実を知り、女性参画の実態を揺るぎないデータとして解析する活動が「無意識のバイアス」というキーワードへ辿り着くまでの起点となった。
私は 10 年前に米国大使館 米国 NSF 東京事務所長 Machi Dilworth 氏(※2)が主催した Round Table Discussion へ参加したことを契機に、実行力ある女性研究者方々との連携が始まった。日本分子生物学会での委員会や執行部での活動期間中には、関連ワークショップ開催の他、学協会連絡会ワーキンググループ(※3)を立上げて「学会活動における女性参画とリーダーシップ」についてデータ収集・報告・提言、等を行ってきた(※4,5)。ここで明らかになったのが、他に先駆けて年大会期間中の保育室整備を進めてきた学会が、その一方では、シンポジストやオーガナイザー等、学会活動の重要かつ visible な場で登壇する女性研究者が極めて少ないことを示すデータだった。同様の事例は、Monroe Reportと呼ばれる論文の他、海外の出版物(※6)には多く報告されており、審査や評価を行う側に女性が一人でもいる場合は、皆無な場合に比べ採択される女性比率が大きく上昇することが示されていた。ここから 2 つの課題、①公平さや参画促進を主張するだけでは動かない評価者自身の心にそれと気づかないバイアスがあること(unconscious bias または implicit bias と呼ぶ)、そして②評価する側に女性が不在であること、これらが女性研究者を停滞させる要因であることが明らかになった。課題が見出せれば方策は自ずと決まってくる。現在、①については、無意識のバイアスがあることへ気付きそれを審査や評価の場で排除するための啓発リーフレットが学協会連絡会から公開されている(※7)。そして②については、審査や評価側に女性を参加させればそれが克服可能である事が実証データとして明確に示された。実際に米国 N S F グラントの女性統括者が先鞭を切る形となった米国内 Advance 事業の他、英国 Athene Swan 等の取り組みは、公的研究費支援による大型研究費獲得や学会開催は、規定割合以上の女性研究者を含めることが前提条件となっている。こうした政府グラントあげての工夫が海外では大きな追い風となった。
私自身のささやかな活動としては、震災後は JST が統率する「文科省 女性研究者活動支援事業」を当時の理事長はじめ旧研究推進会議のご高配下に導入することが出来、小宮先生が既に立ち上げていた女性医師支援事業を追いかけながら、研究環境整備へ特化した提案を実現することができ(旧キャリアラボ)、その後は関口美穂先生、橋本優子先生がそれを盤石なものへと創り上げてくださった。一方、震災後の福島高校はバラック校舎で学業へ邁進の中、学校一丸となって避難民救済を続けていたが、日本女性科学者の会から当地の高校生への支援を申出る有難い知らせを受けた。そこでその秋には、「理系選択支援活動」の一環として女性研究者等が登壇する行事を都内で企画し、福高生 16 名をお招きして活発な質疑応答をいただいた。さらに、「内閣府 国・地方連携会議ネットワークを活用した男女共同参画推進事業」のご支援を受けて、その頃、当研究室に出入りする医学部生だった竹原由佳先生の命名による「理系の仕事〜いつか未来創るあなたへ」を、県内高校生を含む 200 余名の参加者を迎えて福島にて開催することが出来た(※8)。人間の本質的な科学的知識への興味と探索心が、若者らしく遺憾なく発揮された会場では、そのエネルギーが多くの質問をあふれさせ、素直な若い心を揺り動かしていることを実感した。
本年 8 月 21 日は、1913年その日に東北大学が初めて女子学生3名の入学を許可したことを後世に残す「女子大生の日」として登録したというニュースがあった(※9)。今となっては驚くべきことに、当時の文部省幹部から大学宛に「前例これ無き事にてすこぶる重大なる事件」という質問状が事前に送付されたが、時の東北帝国大学総長 沢柳政太郎氏は、合格発表という既成事実でそれを難なくかわし女子高等教育への門戸を初めて開いた (毎日新聞 8 月 26 日記事)。ただ、その後の女子学士達が専門分野で助手等のポジションを得るためには、独身を通すことが暗黙の条件であったという。歴史の事実を知ることは、客観的視点を得る目的でまことに重要である。
小さな我が家庭に話を転じると、今 20 代となった娘二人には全く頭が上がらない。理由は、母親としていろいろな負い目があるからで、例えば入院中の娘を置いて海外の学会発表へ出かけてしまった等、当時はいさみ足で良としたことも振返る心は大変辛い。
本学では様々な考えの人々が多様な生き方を重ねながら、仕事、研究、教育、臨床へと日々献身的な努力を続けている。真に個々人を尊重するとは、自立した人間が、前例、慣習、伝統的考え方、そして無意識下にあるバイアスを意識的に克服することで初めて、人間的な敬意をもって相手を認めることだと思う。その先には、個々人が佳とする幸せな生き方への尊重が伴われる。近日のニュースで、COVID-19 感染者が出た会社名が公表されてから、抗議の電話が鳴り止まない一方で、激励と見舞いのフラワーアレンジメントがそっと届けられたという。
人間的な智慧はどちらの行動を優先するか、世界の、そして日本の AI 先生にそれぞれ聞いてみたい気もする。
※1 男女共同参画(ダイバーシティ)推進に関する評価手法. 藤井良一. 学術の動向 12: 32-35 (2018):
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/23/12/23_12_32/_pdf/-char/ja
※2 Dr. Machi Dilworth : https://www.oist.jp/ja/page/20345
※3 男女共同参画学協会連絡会 (EPMEWSE): https://www.djrenrakukai.org/index.html
※4 男女共同参画学協会連絡会シンポジウム 男女共同参画と社会 報告書:
https://www.djrenrakukai.org/doc_pdf/2010_sympo8th/8th_sympo_report.pdf
※5 Japan’s lagging gender equality. Homma MK, Motohashi R, Ohtsubo H. Science 340: 428-430 (2013)
DOI:10.1126/science.340.6131.428-b
※6 Beyond Bias and Barriers. Published by The National Academy of Sciences (2007).
※7 https://www.djrenrakukai.org/doc_pdf/2019/UnconsciousBias_leaflet_eng.pdf
※8 https://www.gender.go.jp/public/event/2013/pdf/flyer_renkei0202.pdf
※9 http://tumug.tohoku.ac.jp/blog/2020/08/05/18328
医学部附属生体情報伝達研究所 准教授 加藤 成樹
本稿に目を止めていただきありがとうございます。ロールモデルとして他人にお話できるようなキャリアを歩んできたわけではありませんが、私を一例として寄稿いたしました。特に20代後半から30代前半にかけて、ライフイベントが重なることが多く、その真っ只中にいる方々にとっては周りを見る余裕などないことが多いと思います。その時代に差し掛かる前の年代の方に、この先どんな人生が待っているか分からないものの、こんな過ごし方をしてきた人がいるのかと知っていただく機会を持つことは、将来何かの役に立つかもしれません。本稿を通して、読者の方に共感できる部分や参考にしてもらえることがあれば幸いです。図に大きく書いたように、私自身がこれまでの人生を通して常に心がけていることは、「ストレスを持ち越さないこと」です。ストレスは些細なことでも気付かないうちに積み重なって、なかなか除くことができなくなってからでは、対処するのが大変です。小さなものでもできる限り早くそのストレスを発散させることを強くお勧めします。
20代後半で学位を取得し本学に赴任しました。県外から本学に赴任するにあたり、当時公務員であった妻が仕事を辞めるのは惜しいと考え、できることなら仕事を辞めずに一緒に福島に来るにはどうすれば良いかを考え、産休・育休を計画的に使うことを考えました。そのため、大学院生の時に結婚し、運良く長女を授かり、福島に来て間もなく長女が誕生しました。慣れない土地で新しい分野の仕事、学生時代のボスとこちらのボスの仕事の進め方の違い、育児など様々な初めて経験することに対してストレスを感じる1年目でした。
当時からストレス発散として定期的に体を動かしていましたが、仕事の立ち上げで忙しく時間がないことや、どこで運動できるかも分からず、ストレスを溜め続ける日々。その上、やっと運動できる環境が整いつつあった時に、膝を怪我して手術することとなりました。1年弱ほど運動できなかったあの日々は、今思い出しただけでも目の前が真っ暗になりそうです。上の子は寝付きが悪く夜はいつも睡眠不足。と言っても、本当に大変だったのは妻なのですが。
さらに父が癌のため入院生活が始まりました。毎週金曜日の夜に家族で実家に帰り、月曜日の早朝に福島に戻る生活を8ヶ月続けました。治療の甲斐なく、父は他界しました。私も身も心もボロボロでした。思うようにストレスを発散できず、福島に来て1年目は少し精神的に病んでいました。父の看病疲れで、半年後に母がくも膜下出血で倒れ、また週末は実家を往復する生活。それでも母は回復して今は元気なので何よりです。
今思えばあの頃が最も底辺にいた時期だと思います。少しずつ仕事にも生活にも余裕が出てきて、怪我からも回復して運動できるようになったことで元気が取り戻せたと自覚しています。二女の誕生で家の中が賑やかになり心の余裕が生まれました。どん底の時代はいつまでも続かない、いつか上向きになると信じていたことが報われたように思います。 三女が生まれ、仕事が軌道に乗っている時に、米国留学の機会に恵まれました。何もわからない土地でたくさん困ったことや失敗もしたけれど、それを家族5人で乗り越えたことが家族の絆を強くしたと思っています。あの貴重な経験は自分だけでなく子供たちにとって、広い世界に目を向けることの素晴らしさを身をもって感じさせることができました。
帰国して子供達も成長し、僕のストレス発散のためのスポーツを子供達3人と一緒にするようになりました。今では単なるストレス発散ではなく、家族を繋ぐ大事な趣味であり心の支えになっています。
綱渡りのような人生経験なのでキャリアと呼ぶには程遠いのですが、ここまで走り続けて来られたのは、ストレスを溜めすぎないこと、支えとなる家族の存在をいつも大切に思うこと、そして家族であっても思いやりや敬う気持ちを忘れないことだと思っています。先の見通しがある人生は転ぶことはないかもしれないけれど、何が起こるかわからないワクワク感に欠けます。どうなるかわからなくても飛び込んでみることで、そこに新しい世界を作っていく楽しさと達成感が必ずあります。
私にとってもこの先まだ定まっていない人生に向かっていますが、ステップアップする時の助走は長い分には差し支えありません。その時のためにこの先も走り続けようと思います。
医学部附属生体情報伝達研究所 助教 荒井 佳代
私は熊本で生まれましたが、転勤族であったたため、全国を転々とし、福島医大には博士課程学生としてやってきました。博士課程卒業後は、ポスドクとして生体機能研究部門に在籍し、2年後に助教となり、大脳基底核の線条体から投射する回路の役割解明をテーマに研究をおこなっています。研究室で独自に開発されたイムノトキシン細胞標的法を用いることで、標的神経細胞のみを選択的に除去し、いままで不明であった個々の細胞の機能を明らかにすることを目指しています。現在は、3歳と1歳の女の子と大学の教員をしている夫の4人で暮らしています。私の一日は早朝5時起きの1歳二女からのモーニングコールから始まり、朝ご飯とお弁当の準備、保育園の連絡帳書き、娘たちのお着替え、朝ご飯、自身の支度をします。その後保育園に娘たちを預け、職場へと向かいます。夕方は5時30分に保育園へお迎えに行き、帰宅した後は、急いで夕ご飯の準備をし、夫に娘たちをお風呂に入れてもらいます。その後、夕食中に眠くなってしまった二女を寝かしつけ、ご飯や洗濯物の片づけをしているといつの間にか9時になっています。長女が眠くなる10時頃には私も瞼がすっかり重くなっており、一緒にすやすやと眠りについてしまい、あっという間に一日が終わります。出産する前までは、子どもが寝た後の時間は仕事や趣味の時間にしよう♪などと軽く考えていましたが、私にはそのような余裕が全くないことに気づかされました。自身の考えの甘さを反省し、仕事は仕事の時間内に!家では家のことを中心に!とメリハリをつけることが大事であることを学習しました。また、娘たちはまだ小さいため、よく風邪をひきます。夫と午前午後と交代して看病することで、看病も実験も滞ることなくできるため、私たちはこのような取り組みをしています。
本学の男女共同参画室では、介護や子育て中のスタッフや大学院生を対象に、研究支援員さんの配置をおこなっています。私は長女を妊娠してからの3年間、研究支援員さんを配置いただきました。産休・育休に伴う実験のストップという事態は、最先端の研究成果を要求される者として一番の気がかりだったのですが、支援員さんに円滑かつ順調に実験を進めていただくことができました。大変有り難く、心強かったです。これらの研究成果は、復職後の科研費獲得へとつながりました。
仕事と子育ての両立ができているとは胸を張って言うことはできませんが、どちらも楽しく取り組むことができています!とは自信をもって言えます。それは、一番身近な存在である夫をはじめ、職場のみなさんや、友達、遠くの家族がいつでも応援してくれ、色々な形で助けてくれているからだとつくづく感じております。日々周りのみなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。結婚・出産・子育て生活4年目の試行錯誤の毎日ですが、何事も楽しみながら乗り越えていけたらと思っています。
看護学部成人・老年看護学部門 助教 杉本 幸子
看護学生のときに思い描いていた看護師像に近づけるようキャリアを積み重ねてきたつもりではありますが、いつもその道のりは思いどおりにはいかないもので、それでも後になって振り返ると、その時の経験は全て自分にとって必要なことであったように思います。大学教員になることは想定外のキャリアでしたが、今は、教員としての役割と研究者としての役割を果たせるよう試行錯誤しています。それと同時に、職業人として、家庭を営む家族の一員としてワークライフバランスを取ることも課題となっています。1日単位のバランスとして家事にかかる時間や育児にかける時間と、研究や専門職として自己研鑽にかける時間のバランスを調整するだけでなく、年単位、さらには職業人生を通して、自分がどう過ごしたいか、どうなりたいか、自分の大切にしたいものは何なのかを確かめる作業を繰り返しています。
学部生のころから訪問看護師になりたい思いがありました。しかし、その当時新卒から訪問看護師になる道は皆無であり、5年間程度の病棟勤務経験が必要という考えが一般的でした。私自身も、その考えを疑わず卒後は総合病院に勤務しました。最初に配属されたのは手術部でした。そこでは、手術部は5年働いて一通り全ての科の手術ができるようになる、病棟ヘの勤務移動はそれまでできない、と言われていました。この時点で訪問看護師になるためには10年の歳月が必要ということに愕然としました。奨学金を返すためにも働かなくてはならなかったので、自分には向いていないと思いながらも、なんとか通算6年間手術室看護師として務めました。手術部に所属しているその間に、出産と大学院への進学を経験したのですが、同時に母親、院生、職業人として3つの役割を担う時期がありました。訪問看護師になりたい思いは持ち続けていましたので、大学院では地域看護学を専攻し、退院支援をテーマに研究に取り組みました。このテーマに取り組むことは、いずれ訪問看護師として働くためにも意義のあることだと考えました。思いが通じたのか、院生として在学している間に、手術部から病棟へ勤務移動することができました。この間、育児休業制度、短時間勤務制度などを最大限利用しただけでなく、職場の理解、指導教員の配慮、家族や友人の助けがあり、この無謀とも思える3つの役割を担う時期を乗り越えることができたと思っています。
病院に勤務して9年目になったとき、配偶者の仕事の都合で海外に移住することになり、看護師としてのキャリアを中断しました。配偶者は私のキャリアが中断することを躊躇しましたが、私には夫婦が離れて子育てをする選択肢はありませんでしたので、中断することに迷いはありませんでした。また海外で生活する経験は、私だけでなく子供の将来にとっても貴重な経験になることは間違いないと思いました。残念ながら私の英語力は思ったほどには伸びませんでしたが、仕事と勉強、日々の家事育児に忙殺されているだけでは気づけなかった、生活を楽しむという当たり前のことをシドニーで生活するなかで実感することができました。帰国後は、生まれ育った北海道ではなく新天地である、ここ福島で生活をすることになりました。これを絶好の機会と思い、訪問看護ステーションへの就職活動を開始し、念願の訪問看護師になることができました。新しい土地に慣れるのかできるのか、3年間のブランクと訪問看護師として働けるのか様々な不安がありましたが、半年ほど経過して、やっと続けられるかもしれないという思いになりました。しかし、このような思いになった矢先に、勤務先が他の訪問看護ステーションに吸収合併されることになり、残念ながら1年弱で私の訪問看護師としてのキャリアは中断してしまいました。訪問看護ステーションへの再就職も考えましたが、修士課程でのやり残した課題解決のためにも研究活動を継続したい思いもあったため、看護学部の助教として運良く採用していただき、今に至ります。看護実習の指導では、病院での実習と訪問看護実習も担当しているのですが、手術室看護師としての経験、病棟看護師としての経験、短い期間ではありましたが訪問看護を経験していることで、超急性期から在宅医療まで幅広い視点で指導ができる強みを持てたのではないかと思います。また看護学を講義するに際にも、修士課程で学んだ経験は、根拠のある看護実践の教授に欠かせないものだったと思います。さらにワークライフバランスを目指すとき、キャリアを中断した経験や、専業主婦としての経験も活かすことで、生活を楽しみながら、職業人としてキャリアを積み重ねていくことができると考えています。
私はまだ、学部生のときに思い描いていた看護師にはなれていません。まだ道半ばです。このような私が人にアドバイスできる立場ではないと思いますが、どんな経験も無駄にはならないということだけは確かだと思いますので、それだけは私の経験からお伝えさせていただきます。
医療人育成・支援センター 医学教育部門 教授 亀岡(色摩) 弥生
私は2015年から、福島医大の医療人育成・支援センター 医学教育部門で仕事をしています。人が仕事をするのは、経済的自立、社会貢献、そして自己実現のためと言いますが、医学教育が自分のメインの仕事になろうとは異動するまで考えてもみませんでした。その前は薬理学講座、更にその前は輸血部(現・輸血移植免疫部)に在籍し、医学部卒業後に入局したのは第一内科(循環器+血液+消化器内科)でした。“なりたい未来の自分”に向けて努力を積み重ねて実現する人もいますが、私の場合は何度も思わぬ方向から転帰が訪れ、その都度別な景色を見てきました。シェリル・リンドバーグの「Lean In」で「キャリアは梯子ではなくジャングルジム」の言葉を見つけた時は膝を打ちました。
ジャングルジムのキャリア
私が造血機構に興味を持ち血液専攻の大学院生として内科に入局したのは、骨髄移植が新しい治療法として日本に広まった時期でした。移植に対する期待と限界を目の当たりにし、人生の時間を治療よりも“何故”の解明に費やしたいと思い、大学院卒業後研究留学をしました。シアトルにある意中のラボではなく、結婚相手の留学先であったボストンにまず一緒に行きました。学位指導教員のMITに勤める知り合いから研究員を募集しているラボの電話番号を教えてもらい、電話をかけてアポをとり、自分の研究成果をプレゼンしながら相手のニーズを聞くjob interviewのため、4つの研究室をまわりました。複数の研究室を回ることにより研究のトレンド、研究体制、レベル、研究哲学の相場を知ることができ、結局Harvardの関連機関の一つDana-Farber Cancer Instituteにポスドクとして雇われ、欧米人ばかりの研究フロアでおよそ3年過ごしました。アジア人の私は10代にしか見えない上に、欧米人からみると大学出にしては拙い英会話力が災いして最初は毎週の研究報告会から外されました。状況打開のためには、理論武装をしてボスと大ボスに直談判して報告のチャンスを捻り出し、報告会で聴衆にアピールする必要がありました。しかし一度認められると手の平を返したように、与えられたテーマを蹴って自分が発案したプロジェクトをやりたいと言えば惜しみない協力が得られ、研究から政治や文化に至るまで毎日議論の輪に入り楽しめるようになりました。どんなに良い環境にあっても自分で扉をたたいて主張しなければ何も始まらないことを学びました。研究を続けたいとの思いを抱いて帰国して内科に戻って出産し半年経った頃、突然輸血部への出向を命じられました。その時は左遷に違いないと思ったのですが、本当は子育てしながらも研究をしたいという意思を尊重した教授の親心でした。輸血部は単に血液製剤を分配する部署ではなく、同種免疫の視点から病院全体の輸血や移植の危機管理を行う部署でした。全体を見渡してあらゆる危険を予測しシステマティックに手を打つやり方を、現在のOSCE運営に活かしています。また、同じ骨髄移植患者を血液内科医は造血という時間軸で、一方輸血学者は同種免疫の思考軸で診ることを知り、学問体系とは思考軸確立の歴史なのだということに、ここで気づきました。その後、大学のポスト数調整のために薬理学講座に移り、研究・教育業務の比重を増やし、准教授になった時に内科の外来業務を辞め、医学教育部門への移籍が決まるまで、基礎講座の教員として過ごしました。どの部署にも共通することは、若いうちは自分に与えられた業務をこなせばよいが、職位が上がるに従い自分の仕事の質を維持するのは当たり前、周囲の人を支援して組織全体を進化させる義務を負うようになるということです。一方、自分の問題意識や考えが施策に反映されやすくなり、“やり甲斐”が変質します。
キャリアの裏側
人生は努力してもどうにもならないことに見舞われるものです。保育園に預けた娘は1歳の時風邪から肺炎となり入院しました。その後小学校に入るまで8回の入院を余儀なくされました。肺炎の闘病は入院期間前の肺炎が完成するまでの1週間と退院後日常生活に戻れるまでの2週間を合わせて少なくとも一月に及びます。夫は宮城県勤務で、そんな時に最も助けて欲しい親は加齢による心身不調のため頼れる状況ではありませんでした。子供の病気が治って出勤してもひっきりなしに親が職場に電話をかけてくるので、電話と電話の間のコマ切れの40分が実験に集中して現実逃避できる救いの時間でした。3歳になった娘が預け先でよくない扱いを受けていることを知り預けるのをやめる決断をした時には「やめたら(お母さんが)お仕事できないでしょ、だから行くよ」と娘に言われ、心底自分を呪いました。子供の病気で休みがちだった時の「ボク達の介護保険を払えるように育てるのが一番重要」との上司の言葉に救われ、女性の先輩達がそっと話してくれた経験談から誰もが何等かの“理不尽”に出くわしそれを乗り越えて生きていることを知り、ピンチの時に助けを求めれば応えてくれる同僚を頼り、今日まで何とかやってきました。
ジャングルジムとは言え、未知の領域に足を踏み入れる時には大きな不安に襲われます。それでも、勇気をもって踏み出せばその経験が後の自分をつくります。そもそも人生は不公平で理不尽に満ちています。助けを求めることは恥ずかしいことではありませんし、助けられることによる気づきもあります。一度だけの人生、自ら扉を叩いて、悔いなく生きたいものです。
医療人育成・支援センター 助手 諸井 陽子
私は教育学部出身の教員です。医療職とは異なる視点で新しい教育手法の開発を中心に医学教育に携わっています。現在の主な業務は臨床技能手技トレーニング施設である「スキルラボ」の管理・運営で、教育面では主に医学部低学年の授業を担当しています。福島医大からステキな医療者が育ち、県内や日本のみならず世界の医療が発展することを願って日々励んでおります。プライベートでは、南会津に単身赴任中の夫と共に、小学3年生の娘を育てています。
ロールモデル紹介のお話をいただき、過去を振り返ってみますと、進路の転機となったのは「第1種放射線取扱主任者」という国家資格を耳にしたことかなと思います。当時、茨城県の核燃料を加工する施設で臨界事故が発生した後で、原子力や放射線に興味もあり、その資格を取得したことがきっかけとなり、本学の放射性同位元素研究施設(RI施設)で働けることとなりました。RI施設の管理業務を4年間実施した後に、現在の医療人育成・支援センターに異動して医学教育に携わっています。医学教育を学び始めてしばらくたった後、違う分野の学会に参加した際、知っている人が誰もいなくて心細かったというような話を当時の上司にしたところ「それはいいね。パイオニアになれるかも。」との言葉をいただきました。いわれてみれば確かにそうです。その世界に医学教育の風を吹かせるチャンスでした。今まで、どちらかというと受け身で、いただいた業務を行ってきたので大きなことは言えないのですが、きっかけはどこにでもあるものです。そのきっかけを「チャンス!」と思って行動してみてはいかがでしょうか。考えている事と違っていても、やってみると興味がわいたり、望んでいた方向に進むかもしれません。仕事も趣味も何事も楽しんでやった方が上手くいくような気がします。
研究を進めるうえでは、生活が大きく変わった育休明けと夫が単身赴任になった最初の年に、男女共同参画支援室の研究支援員制度を活用させていただきました。この制度で派遣いただいた研究支援員の方には、調査データの入力・集計・グラフ作成や文字起こし入力等をお願いしました。支援を受けることでセミナーへの参加や成果報告会での発表などの義務も生じますが、定期的に支援員の方に来ていただくことで、研究の進捗状況をマネジメントして計画的に進めることができとても助かりました。
最後にワークライフバランスについてお話しさせていただくと、子育て中の現在は基本的には定時に帰らせていただいており、朝は早めに出勤したり、お昼休みの時間を短くしたり、先述の研究支援員制度を活用したりして業務時間を確保しています。帰りが遅くなる際は延長保育を利用していますが、延長時間よりも遅くなる場合には早めに一度帰宅して娘を主人や実家に預けてから仕事に戻ったり、早朝出勤が必要な際は近所に住む主人の母にお願いしたりと色々な方に助けていただき何とか両立できています。小学校に入学してしばらくは毎晩家で娘の話を聞きたいと思い宿泊を伴う出張等を控える一方で、研究や論文執筆に力を入れました。上司や同僚の理解や協力もいただけ、遅い時間帯の業務を担当してもらったり、日中に休みをいただいて授業参観やPTA役員等の学校行事に参加できる事も仕事を続けられる要因だと思い感謝しています。子供の手が離れたら私もサポートする側に回って恩返しをしたいです。ライフイベントによっては、現場に出て作業する時間をどう頑張っても自分の思う通りにできないことが少なくありません。臨床・研究・教育等のそれぞれにどのように力を入れたらよいのか、一人で抱え込まずに周りの方に相談してみましょう。長いスパンで考えて着実に進めていくでよいのかなと個人的には思います。そして「何事にもチャレンジ!」です。最初の一歩を踏み出すのにはとても勇気がいりますが大丈夫。一生懸命頑張っている皆さんを応援してくれる方は想像以上に沢山います。周りの方とのつながりを大切に、信頼関係を築いていきましょう。皆さんと一緒に働けることを楽しみにしつつ、皆さんが目指す医療職になれるよう応援しています。
性差医療センター 教授 小宮 ひろみ
私は昭和61年に山形大学を卒業しました。大学時代は軟式庭球部に所属し、テニスコートを駆け回っておりました。夏は真っ黒になり、日焼けは毎年恒例でした。私とペアだった同級生が強かったこともあり、全医体に出場したこともあります。充実した学生時代を過ごしました。笑ったり、泣いたり、悩んだり、物思いにふけったり..。ただ、今思うことは、たくさんの先輩、友人、後輩ができ、それは今でも宝です。
それから、大学院にはいりましたが、妊娠したために大学院を辞めなければなりませんでした。今では妊娠により大学院を辞めなければならないということはありませんが、大学院を続けることは無理と判断されたのでしょう。私も仕方ないと自分を納得させました(その当時の教授の名誉のために申し上げますが、優しい先生でした)。そのため、産婦人科医として生きていこうと決意し、トレーニングをすることになります。結局、卒後2年目で子供が生まれ、仕事と子育ての両立を余儀なくされました。その当時は、「女性医師支援」「働き方」など全く言われていなかったので、正直とても辛かったです。子供の成長は本当に喜びで、何ものにも代えがたいものがありました。一方、自分の医師としてのキャリア形成を考えると、それは深い暗いトンネルにはいったような気持ちです。何にたどり着きたいのか、何にたどり着けるのか全く見えない、日々、同級生は次々にいろいろなスキルを身につけていく、学会発表もしているにもかかわらず、私は休日に開催される地方部会にさえも出られなかった..大学院も退学させられ、医師のキャリア形成も中途半端で私は何なのだろうと辛い日々が続きました。その時、ある先輩が「こんなプロジェクトがあるから研究してみない?何かひとつまとめてみたら?」と言ってくださいました。その時、私は頸椎椎間板ヘルニア手術の直前でした。ある物質について遺伝子解析をしてほしいということでしたが、研究についてはcDNA? 初めての言葉ばかりで全く理解できません。ただ、術後痛みさえひけば勉強できるはずと思い「ワトソン・組換えDNAの分子生物学」の本を病室に持ち込んで読んでいたことを覚えています。必死で学位をとりました。それは「Biology of reproduction」に掲載され、「私でもできた、人と比較するより、着実に成し遂げていくことが大事なんだ」と気が付きました。
人生は予測不能です。プライベートでも思いもよらないことがおこり、ここでも、私は挫折感を味わうことになります。どうして私だけ..。その時です。友人やお世話になった先生方から励ましの言葉をいただきました。そして、気が付いたことがあります。それまで、私は「こうあるべきなのに、なぜならないの?」と頑迷な生き方をしてきました。でも、もうその生き方は通用しません。「柔らかな心、しなやかな生き方、自分を律する心」が重要であることに気が付いたのです。そして、同時期ですが、研究に対する興味はどんどん深まり、アメリカに留学しました。息子をつれた留学です。大変でした。アメリカは、自分で切り開かなければ何一つ動かない国です。夢中でしたが、よく動きました。あれ?自分は意外と動けるということを認識しました。今考えると、とてもよい時代でした。研究は臨床をするにあたり必要ではないと考える方もいるかもしれませんが、臨床するにも研究マインドはとても役に立ちます。研究には目的があり、そのための手段を考え、結果がでてフィードバックして考える。このような科学的プロセスは患者さんをみる上でも大切です。
アメリカで3年半過ごした後、福島県立医科大学に入職いたしました。産婦人科に入局させていただいたのですが、多くの先生に育てていただきました。ありがたいことだと感謝しております。人との出会い、特にキャリア形成をしていく中には、キーパーソンがいると思います。勿論、振り返らないと誰がキーパーソンだったかわかりません。人との出会い、つながりを大事にしていれば、必ず巡り会えます。
そして、継続することです。私は福島に戻った時に、これからは「女性の健康」と「医師の働く環境の改善」をめざそうと心に決めました。そして、私はやっと深く暗いトンネルから出ることができたのです。「産婦人科」は勿論のこと「性差医療」「男女共同参画」「漢方医療」に微力ではありますが、その思いを実践させていただいております。人生を考えますと、仕事の量質はその時期で変えざるをえないかもしれません。しかしながら、どのような形でも継続することにより、社会への貢献、医療への貢献、また自分自身のキャリア形成がなされます。現在はそのために種々の支援が整備されておりますので、それらを活用していただきたいと思います。そして、苦しい時は誰かに相談することです。苦しんでいる後輩、同僚、友人に対して温かく、時に厳しく手を差し伸べてくれる方は必ずいます。これからいろいろなことがあるでしょう。でも、乗り越えられます。自分の目標に向かって頑張ってください。心から応援しています!
ご挨拶 理事長兼学長 竹之下 誠一
令和2年12月25日
ロールモデル集の掲載にあたり、ごあいさつ申し上げます。
これまで、本学の女性医師支援については、主に男女共同参画支援室や総務課において、託児所等の整備、研究支援員の配置、研究者のスキルアップ・キャリアアップのためのセミナー等を行ってきたところです。男女共同参画についての実態を把握するために学内アンケート調査を行ったところ、「周囲に仕事と家庭の両立をしている先輩職員がいないため、自らが活躍する姿が思い描けない」などの意見が寄せられることがありました。
そこで、「福島県立医科大学附属病院医療安全改革アクションプラン」の一環で、本学のロールモデルを紹介することとし、このたび、本学の様々な分野で活躍している17名の方に「福島県立医科大学の後輩へ」というテーマでメッセージを寄せていただきました。
ロールモデルとなる17名のキャリア、ライフイベントから得られた考え方、経験知は、若手の教職員、学生にとって、進むべき航路を指す羅針盤になることと思います。また、ロールモデルの共有はベテランと若手のコミュニケーションの強化にもつながります。組織、部署の活性化のためにも、このメッセージが多くの皆様の目に触れることを願います。
ご挨拶 附属病院長 鈴木 弘行
令和2年12月25日
このたび皆様にロールモデル集「福島県立医科大学の後輩へ伝えたいこと」をお届けできることを大変うれしく思います。
お読みいただければ、本学には優れた先輩たちがたくさんいらっしゃることを理解いただけるものと思います。思い起こせば、私にもロールモデルとなる先輩方が沢山いらっしゃいました。私にとってのロールモデルは決して一人ではなく、例えば外科医として(私は外科医です)、或いは研究者として、そして一人の人間としてどのように振る舞い、どのような道を進むべきかを教えてくださった方々です。この人と出会わなければ今の自分はない、そんな先輩方です。
このプロジェクトは、医療安全アクションプランのひとつとして、医療スタッフのキャリア形成の一助になれば、との想いで進めてきたものです。多くの方々にご覧頂き皆様の心の羅針盤として、繰り返しお読みいただければ幸いです。